東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 花蓮から飛び立った特攻隊 【花蓮縣花蓮市】

 【花蓮から飛び立った特攻隊】

 花蓮から飛び立った特攻隊員について、わかっていることをここに列記させて頂きます。

 ☆昭和20年3月28日、特攻出撃のために、石垣島飛行場へ向かうため花蓮港飛行場滑走中に敵機からの攻撃を受け、無念の死を遂げた、飛行第7戦隊 准尉 難波国次氏(少年飛行兵八期 岡山県出身)。

 ☆昭和204月12日午後5時20分、飛行第二〇戦隊の四機、誠第十六飛行隊二機の計六機が花蓮港飛行場を離陸。沖縄周辺の機動部隊攻撃のために、二〇戦隊隼六機に掩護されて進攻中に、花蓮港東方約200kmの海域で、敵機30機の攻撃を受け、空中戦が展開された。無念にも隼に500kg爆弾を装備していた特攻機は自由が利かず、飛行第二〇戦隊 大尉 神田正友氏(特別操縦見習士官一期 大分県出身)と同戦隊 少尉 上野強氏(少年飛行兵一二期 京都府出身)の二機が敵弾を受け、目的地に到着出来ないまま壮烈な自爆を遂げました。残りの四機は、天候不良のために敵機動部隊を発見できず、花蓮港飛行場へ帰還。

神田大尉は、「われ肉弾となり敵艦へ突入、護国の鬼になる」という言葉を残して出撃したが、目的を果たせず亡くなった。

 ☆昭和20年5月1日午前4時10分、花蓮港飛行場を飛び立った、独立第二三中隊 大尉 片山勝義氏(特別操縦見習士官一期 福岡県出身)と同中隊 少尉 有吉敏彦氏(予備下士官学生九期 福岡県出身)の二機は、戦果確認の戦闘機一機に誘導され、沖縄周辺洋上の機動部隊に突入自爆しました。

 ☆昭和20年5月3日午後4時40分、花蓮港飛行場を飛び立った、飛行第十七戦隊 大尉 下山道康氏(陸軍士官学校一期 長野県出身)、同戦隊 大尉 辻中精一氏(幹部候補生一期 大阪市出身)、同戦隊 大尉 斎藤長之進氏(特別操縦見習士官一期 神奈川県出身)、同戦隊 少尉 原一道氏(昭和十二年兵 長野県出身)の四機が、独立飛行第四八中隊 曹長 堀田彪(北海道出身)、同中隊 曹長 下地春信(長野県出身)に誘導され、沖縄沖の機動部隊に突入し、自爆しました。

無電で戦果を報告した堀田曹長は、その直後に、対空火器による攻撃を受け、「われ、突入!!」の無電を最後に、下地曹長とともに、特攻機の後を追って自爆しました。

 ☆昭和20年5月17日午後5時、花蓮港飛行場を飛び立った、飛行第二〇戦隊 大尉 今野静氏(特別操縦見習士官一期 宮城県出身)、大尉 白石忠氏(特別操縦見習士官一期 東京都出身)、稲葉久光氏(特別操縦見習士官一期 神奈川県出身)、大尉 辻俊作氏(特別操縦見習士官一期 富山県出身)は、慶良間列島東側の機動部隊に突入し、自爆しました。

実は、この四名は、以前にも出撃をしたが、天候不良のために帰還しています。

辻大尉、稲葉大尉、白石大尉は、一回目は4月12日、二回目は5月13日に出撃し、天候不良で帰還。今野大尉は5月13日に出撃しています。

5月13日に出撃の際に、辻大尉は、出撃一時間前に以下の様な遺書を両親宛に書いています。

「前略 5月13日沖縄周辺に突撃する。吾の心に一点の雲なし。

今までに何回か出撃するも、悪運強く天候不良で敵機動部隊を発見し得ず、無念の涙を飲んで〇〇特攻基地(〇〇の部分は消されていました)に帰還したが、今日こそは大物と差しちがえる。

最後に、うれしい便り、われの戦果確認は同郷の、また同じ富山師範出身の福沢忠正少尉なり。彼と机を並べて勉学せし二年前、今われの戦果を確認してくれることは、何たる喜びぞ。母校富山師範荒鷲のため、今日、空母撃沈を誓って出撃する。

また、一二日海軍中尉河合一雄と再会、彼もすぐ特攻出撃すると張り切っている。

この夜は、富山師範出身の、吾、福沢少尉、河合中尉の三名で宜蘭料理屋にて、今生の別れと、語るをつきず、お互いの健闘を誓い、愉快に飲み明かす。

偶然にまったく予期せざる喜びであった。

陸海軍異なるも祖国と民族を愛する心情に変わりはない。ともに米英撃滅を誓って散会、今度会うときは、靖国神社の九段下で大いに飲もうと、お互いに一発必中撃沈を祈って別れた。

それでは、もう時間がない。

ただ今願うのは空母撃沈のみ。

お父さん。さようなら。

お母さん。さようなら。

お母さんの写真を胸に抱いて征きます。

母の写真を抱いて喜んで死にます。ご安心ください。それでは、辻家ご一同様の御健康と御幸福を祈って、われ出撃す。

親類、近所の皆様方にくれぐれもよろしくお伝えください。

昭和二〇年五月一三日

出撃直前に、〇〇特攻基地にて辻少尉(亡くなる前は少尉でした)

父上様 母上様

 

これが第二回目の出撃であったが、天候不良で全機が帰還。最後の出撃は四日後の十七日でした。

福沢少尉は、特攻戦果確認のために辻大尉らと同行して飛び立ったが、敵戦闘機の大編隊に襲われ、単機勇戦奮闘したが、敵弾を受け、火だるまとなって海中に突入、自爆した。この日の戦果確認は、坂本中尉となった。

最後の出撃直前に、辻大尉は、以下の様な遺書を残している。

父母様

律子の県立高女の入学の便り受け取りました。

本当に御目出度う。

俊作もこの便りの来るのを如何に待ちしか。しかし、案じていた妹のことが解決、これで安心して死ねます。

本当に御目出度う、出撃寸前にこの便りを受けた。午後五時。

吾、特攻隊として出撃す。今回は必ず突入に成功します。

吾の分まで律子親孝行を頼む。

それでは、取急ぎこれを書く。

五月一七日

出撃直前、台湾〇〇基地にて 俊作

 この手紙を残して、辻大尉は花蓮港飛行場を飛び立ち、帰って来なかった。

(文中の階級は、戦死後の階級を採用させて頂いております)

 

また、戦地に向けて飛び立つ前に、訓練中に命を落とした兵隊さんたちもいた。

その中のお一人が榊原實陸軍中尉。昭和17101日に二等兵として騎兵3連隊に入営され、翌年1210日に飛行第26戦隊に転属、同年1228日に曹長になり、昭和19630日に現役満期を向かえましたが、同年71日に少尉として引続き臨時召集され、昭和20325日に補第8飛行師団司令部附となりました。

そして、終戦の僅か2か月前、昭和20617日に、花蓮の花蓮渓河口にて、訓練中に飛行機が墜落し、お亡くなりになりました。23歳でした。

榊原さんはお亡くなりになる前に、ご実家に軍服をきれいに折りたたんだ状態で送り、その軍服が届けられた時、ご両親は覚悟をお決めになったそうです。

2017年前後頃(詳細な日時については記録が残されていません)、榊原實さんの弟さんが花蓮を訪問されました。筆者が松園別館、花蓮渓河口をご案内し、お兄様がお亡くなりになったであろう場所で献花されました。その際、弟さんは「やっと兄が最後に見たであろう風景を見る事が出来ました。この美しい花蓮の海を、兄がどんな思いで見ていたのか、飛行機が墜落する直前、兄はこの海の遥か彼方の故郷に居る私たち家族の事を思い出しながら散っていったのかと思うと、胸が締め付けられる思いです。」と涙ながらに語っておられました。その翌年、弟さんのご子息から「父が亡くなりました。きっと最後にどうしても自分の兄が戦死した場所を見たかったのでしょう。亡くなる直前まで『花蓮に行けて良かった』と申しておりました」と連絡がありました。今でもご案内出来て本当に良かったと思っています。

 これらは全て、実際に花蓮で起こった悲劇です。

祖国日本のために、愛する人のために、尊い命を捧げた彼らの事を、私達は決して忘れてはなりません。そして、何よりも、二度と、同じ悲劇を繰り返してはいけないのです。

 花蓮から飛び立った特攻隊員の皆さんが、最後の晩餐をとった松園別館には、樹齢100年以上の松の木が今でも残されています。この松たちは、様々な歴史を目撃してきました。明日、散りゆく若者の姿。特攻機を涙を流しながら見送った将校達の姿を見てきました。そして今、平和になった花蓮の地で、新たな未来向かって歩み続ける人々を、やさしく見守ってくれています。

以下の写真は、榊原實中尉のご遺族から提供された貴重な写真です。当時の飛行場の写真は撮影する事もそうですが、それを持ち出すことは非常に難しいとされていました。それ故に、この写真は、非常に貴重な写真であるといえるでしょう。



花蓮港北飛行場


榊原實中尉


【参考文献】

田形竹尾著 「飛燕対グラマン 戦闘機操縦10年の記憶」

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