東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 松園別館(花蓮陸軍兵事部) 【花蓮縣花蓮市】
【松園別館(花蓮港陸軍兵事部)】
花蓮駅から車で10分ほど走ると松園別館に到着します。
小高い山の頂上に建てられた松園別館は、1942年に、当時の花蓮港陸軍兵事部の事務所として建てられました。主な使用目的は、将校達の社交場として使用するために作られたと言われています。しかし、実際に社交場として使用されたのは数回で、終戦間際には、花蓮から出撃する神風特攻隊の隊員が、最後の晩餐を取る場所へと変わっていったのです。
建物は鉄筋コンクリートの2階建てになっており、東側2階のバルコニーからは太平洋が一望できます。
松園別館の右手奥に防空壕があります。手前に鉄門の展示がされています。防空壕は当時のまま残されているもので、中には、特攻隊に関する写真展示が行われています。松園別館の羅曼玲館長さんが、「台湾や世界の若い人にも特攻隊の悲劇を知って欲しい」という想いから作られました。
以前、この場所に女優のかたせ梨乃さんをご案内した際、かたせさんが「防空壕って本来は未来に向けて生き残るため作られたもの。でも、ここの防空壕は、お国のために命を捧げる日が来るまで生き残るための防空壕。そう考えると、心が痛みます。」と語っておられました。
松園別館の建物の裏側にログハウスの様な建物が建っています。これは、当時の建物を復元したもので、当時ここには、天皇陛下のお写真が飾られていたそうです。終戦の日、ここで悲劇が起こりました。その内容につきましても、下記、「歴史の生き証人」をご参照ください。
この松園別館、戦後は一時、アメリカ軍の駐屯場として使用されていたが、その後廃墟となった。そこで行政がこの場所にリゾートホテルを建設する計画を立てたが、地元住民による反対運動が起こり、結果、計画は中止され、建物を修復する事となり、今の姿となった。地元の方が「ここには、当時の兵隊さん達の魂が宿っている。それを取り壊すなど絶対に許せない事。」と語っておられました。
また、松園別館の前に日本風の建物があるが、ここは、以前の水道局の官舎があった場所になり、松園別館とは何ら関係はありません。ただ、ここの松も大変見応えはあります。
花蓮では、2018年2月の大地震、同年発生の台湾鉄道特急列車脱線横転事故、新型コロナ感染拡大と度重なる人災、天災により観光客数の増減が非常に激しい数年が続き、花蓮の観光業界は大きな打撃を受け続けてきました。その度に、花蓮人の不屈の魂でこれらの危機を乗り越えてきましたが、2024年4月に発生した花蓮大地震後、観光客の減少に歯止めがかからず、また、地震の被害によって、数多くの宿泊施設、飲食店が廃業に追い込まれ、遂に、松園別館も同年8月31日をもって閉館となってしまいました。これを執筆している段階での情報では、政府、民間が再開を目指しての道を模索中とのことですが、具体的な道は未だ見えていません。今はただ、再開を願って祈るばかりです。従いまして、松園別館への入館は現段階では出来ない状態ですが、外観は見る事ができます。是非、外観だけでも見に行って頂ければ幸いです。
*2024年10月11日現在の情報では、2025年1月から再開する事が決定したとの報道がありました。
【歴史の生き証人】
「ある日、花蓮港陸軍兵事部(松園別館)の近くへ用事があって出かけた時の事です。たぶん、浄水場に用事があったと記憶しています。松園別館のバルコニーに、将校さん達が一列に並び、太平洋の方に向かって敬礼をしていました。私は何事かと思い、太平洋の方を見ると、ゼロ戦が花蓮空港の方から飛んできました。(バルコニーから見て左手)
するとゼロ戦は松園別館の正面付近までくると、翼を大きく左右に振り、その後、旋回をして、東の方(沖縄方面)へと飛んで行きました。遠目からでしたが、並んで見送っていた将校さん達は皆さんが泣いていました。当時は、「男子人前で涙見せるべからず」と教わっていたので、将校さん達が泣いているのが不思議でしたが、後に、特攻機を見送っていたのだと知り、今でもあの光景を思い出すと、胸が熱くなります。
また、終戦の日、天皇陛下からの玉音放送を聞いた後、松園別館の裏手の建物(別館の建物の裏側にログハウスの様な建物が建っています)で、将校さん達が自害されました。私の知り合いの方が、ご遺体の回収をお手伝いされました。夕方、日が暮れたころ、将校さん達の遺体を乗せた車が基地に入って行きました。正門では若い兵隊さんが泣きながら敬礼してお迎えしていました。私も、お車に向かって深々と頭を下げました。周りにいた大人達も頭を下げ、合掌していました。
【筆者より一言】
*松園別館:花蓮市松園街65號
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