東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 日本統治以前に勃発した原住民重大事件3 太魯閣事件
【太魯閣事件】
太魯閣事件とは、1876年、花蓮縣三棧溪一帶に住んでいた太魯閣族(Truku)に対して、清が攻撃を仕掛け、発生した軍事衝突をいいます。
「開山撫番」とは、1874年の牡丹事件以降、清朝の台湾対外拡大政策のこと。
具体的には、「開山」政策として、台湾西部と東部を結ぶ道路、北側道路、中側道路、南側道路の開通をめざしたもので、北側道路は、噶瑪蘭廳蘇澳から花蓮奇萊の205km、中側道路は、彰化林圮埔から花蓮璞石閣の265km、南側道路は、屏東射寮から台東卑南までの214kmの道路計画でした。
また、「撫番」として、台湾原住民を漢化させるものであり、原住民の人口土地調査を行い共通言語と私闘を禁止し、蕃学の設置や道路の建設などを行ないました。また随時蕃社を招撫し漢人に対する武力を中止させると共に、それに反対するものに対しては兵力により鎮圧を行なうと制定しました。
沈葆禎が最初に後山(東部花蓮縣、台東縣及び屏東枋寮以南の地区)へ積極的に進行し、原住民を討伐、劉銘傳がそれを引き継いだものです。
しかし、この「開山撫番」の「開山」政策の重要課題である道路計画上には、原住民の部落や生活区域が含まれており、これに反対する原住民が抵抗したため、清朝によって各地で原住民の惨殺が行われました。
また、沈葆楨は、「開山撫蕃」を順調に進めるために、1875年2月、漢人の台湾への入国制限、不法移民の漢人取締り、台湾西部から東部への移動を禁止及び台湾に居る漢人が原住民の女性と結婚することを解禁しました。(当時、清から台湾へ来ることが出来たのは男性のみだった)
羅大春*2 率いる兵は、後山北路を開通することになったのですが、1875年、後山北路は、太魯閣族の生活領域をも侵すことになりました。これに抵抗する太魯閣族に対し、1876年、清軍は攻撃を仕掛け、太魯閣族は山中へ避難。清軍は、三棧溪周辺に基地を作り駐屯しました。太魯閣族は山中に逃げた後も、攻撃を辞めませんでした。
同年1月10日には、陳光華が清水を通過している際に太魯閣族からの襲撃を受け死亡。1月24日~26日、2月5日~8日の2回、太魯閣族は羅大春の部隊へ攻撃を仕掛け、羅部隊も応戦。兵の数では清が圧倒的に優勢であった。その後も度重なる衝突が勃発していました。
4月に入り、清軍の陳輝煌が吳全城(今の花蓮縣壽豐鄉平和村)に進攻し、その際に、木瓜五社=賽德克族(賽德克語:Sediq)を味方につけました。
太魯閣族は最後まで抵抗し続け、時には大きな岩を山の上から落として反撃。
羅大春は、衝突の長期化は何としでも避けたかったのです。そして、一刻も早く三桟を手中に収め、沈葆楨の「開山撫番」実現に向けて進めたかったのです。
最終的に太魯閣族から和解の要求があり、羅大春は、この付近の状況に詳しい李阿隆を仲介役として立て、話し合いを行いました。
羅大春は、太魯閣族に対し、3名の首を差し出すならばという条件を付けた。結果的に太魯閣族側はその要求をのみ、3名の首を差し出し、羅大春はその首を台北に送ることで、この事件を収束させたのです。
*1 沈 葆楨(しん ほてい、1820年 - 1879年)は、清末の官僚。福建省侯官県(現在の福州市鼓楼区)出身。
牡丹事件に対する日本軍台湾出兵後、沈葆楨は日本軍が上陸した瑯嶠地区に恒春県を設置すると共に台湾北部に台北府を設置することを奏請した。また淡水庁及び噶瑪蘭庁を淡水県と宜蘭県に分割、淡水庁の頭前渓以南の地区に新竹県を、鶏籠地区に独立した庁を設置すると共に基隆と改称している。更に大甲渓以北の台北府の下部に淡水、新竹、宜蘭の3県及び基隆庁を管轄させ台湾北部の行政比重を高め、台湾開港後の発展に対応した行政区画を整備した。
北部以外では、沈葆楨は台湾行政区域と地域開発の一致に尽力し、当時嘉義県の南部となっていた曽文渓以南の地区は県治より距離があり、台湾府の附郭県である台湾県の管轄を強化する目的で台湾県に編入された。この他彰化県の埔里地区には単独の埔里社庁を設置し、北路撫民理蕃同知を中路撫民理蕃同知と改称、後山地区には卑南庁を設置し南路撫民理蕃同知をそれぞれ駐在させた。これにより大甲渓以南の中南部地区は台湾府が設けられ、その下に彰化・嘉義・台湾・鳳山・恒春の5県及び埔里社・澎湖・卑南の3庁が設置される行政体制が確立した。
沈葆楨は台北府設置の奏請以外に、地域間格差の是正を目的に台湾前山、後山の開発を行なった。開発と同時に撫蕃を行い積極的な後山地区の開発を推進するために、後山への交通路として北路、中路、南路の建設を行った。北路は噶瑪蘭庁蘇澳から花蓮奇莱までの205里、中路は彰化林圮埔から花蓮璞石閣までの265里、南路は屏東射寮至から台東卑南までの214里である。中路は現在も残存しており、国家一級古蹟に指定され、八通関古道と称されている。
*2 羅大春(1833年—1890年)貴州施秉縣人,清朝の官僚
蘇澳東澳至奇萊(現今花蓮港北岸附近)間の道路(蘇花古道)を建設したことで有名。
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