東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 日本統治以前に勃発した原住民重大事件1 加禮宛事件

 前章でご紹介したように、花蓮は、原住民の住む割合が非常に高い地域です。

原住民と日本人との様々な戦いに対して「日本人は原住民を武力で制圧した。日本が台湾を統治するまでは穏やかに暮らしていた原住民達が可哀そう。」と言うご意見を耳にすることがあります。しかし、本当に、その見解は正しいのでしょうか。

これからご紹介するのは、日本が台湾を統治する前、清朝国時代のお話です。

清の時代に、東台湾で勃発した大きな事件が3つあります。「加禮宛事件」「大港口事件」「太魯閣事件」です。これらの事件について知っている日本人は非常に少ないと思います。

是非、この機会に、原住民達が辿った歴史に触れ、記憶に留めておいていただければ幸いです。

 【加禮宛事件】

 加禮宛事件(噶瑪蘭語:Lanas na Kabalaen)は別名、達固湖灣事件(撒奇萊雅語:Takubuwa a kawaw)とも呼ばれており、台湾原住民族噶瑪蘭族(Kebalan)と撒奇萊雅族(Sakizaya)が共同で、1878年に清朝に抵抗した事件の事を言います。この事件は花蓮地域の民族分布に大きな影響を及ぼし、噶瑪蘭族(Kebalan)と撒奇萊雅族(Sakizaya)は清軍の侵攻に対して共同抵抗したものの、ほとんど絶滅状態となり、生き残った人々は阿美族(アミ)の中に隠れました。同時に、清軍を支援した七川社は奇萊平原で最大の部族となり、七川事件まで衰退しなかった。

 牡丹社事件*1後、清は「後山」(現在の花蓮と台東地域)を管理することの重要性を感じていた。「後山」の防御を強化するために、沈葆楨大臣*2は、「開拓」と「保護」という二つの方法で管理することを提案。管理方法として、中南部と同様に、「後山」に軍隊を配置し、「後山」が清朝の管轄下にある事を知らしめる。同時に開墾採用局を設置し、開墾した漢民族を募集し、後山開拓に参入させることにした。

 加禮宛人(Kaliawan)とは、撒奇萊雅族(Sakizaya)及南勢阿美族(Amis)が、花蓮に住む噶瑪蘭人(Kebalan)の総称としてそう呼んでいた。1840年ごろ、加禮宛港附近(今の冬山河から蘭陽溪出口付近)から後山の加禮宛(今花蓮縣新城嘉里村)へ移住。撒奇萊雅族の部落に隣接していました。彼らは、美崙溪へ領土を広げようとしましたが、撒奇萊雅族によって撃退された。しかし、加禮宛社は太魯閣族(Truku)からの攻撃に備えるために、基本的には平和に共存しており、共に、太魯閣族を攻撃していた。漢人が蘭陽平原まで開拓を進めて来たため、噶瑪蘭族は花蓮北部へと追いやられた。

当時の清朝政府の資料によると、加禮宛事件発生後は、加禮宛、竹仔林、武暖、七結仔、談仔秉、瑤歌等、6つの部落をつくり住んでいた。

 羅大春*3は断続的に太魯閣族からの攻撃を受けていた。そこで、後に加禮宛事件の首謀者となる噶瑪蘭族の頭目、古穆德·巴吉克(Komod Pazik)と協力して、太魯閣族からの攻撃に対抗した。当時の文献によると、噶瑪蘭族は非常に従順な人々だったと記録されている。しかし、その後清朝は、奇萊を攻略するために古穆德·巴吉克(Komod Pazik)に相談もなく、より多くの軍隊を派遣してきた。

 撒奇萊雅族は花蓮の奇萊平原に住んでおり、勢力範圍は立霧溪以南から木瓜溪以北までであった。彼らはこの地区では最強の原住民だった。最大の部落は達固湖灣(Takobowan,今の花蓮慈濟大学から四維高校付近)部落で、清朝の文献によると、「巾老耶社」、「筠耶耶社」,或「竹窩宛社」があったと記録されている。

達固湖灣部落の人達は、四年ごとに年齡階層があり、成人の儀式の際には、美崙溪、三仙溪に竹を植えるという風習があった。この竹林は出入り口が三か所しかなく、強固な防衛要塞の役割も果たしていた。

 187611月、加禮宛人聯合(荳蘭及木瓜等の噶瑪蘭族と撒奇萊雅族は、夜に清の兵舎を攻撃し、漢人たちを襲った。この知らせを受けた福建省の丁日昌は自らが台湾へやってきて処理にあたった。しかし、事件後、木瓜部落の頭目は、自分たちは事件に関わっていないと主張した。事件処理後、丁日昌*4は、張其光に代わって光亮*5を台湾の参謀本部長に命じ、軍の立て直しを図った。

翌年、吳光亮は自府城(今の台南市)から兵を率いて八瑤灣(今の屏東縣滿州鄉)に入り、さらに、卑南(今台東縣)へと進んだ。そして、水尾(今の花蓮縣瑞穗鄉)、馬大鞍(今の花蓮縣光復鄉)、さらには、吳全城(今の東華大学附近)へと兵を進めた。光亮は、北路(宜蘭方面から)あるいは中路(中央山脈越え)での後山への進攻は諦め、南路方面の軍力強化を図った。

1876年の事件自体は大きな事件ではなかったが、東台湾の攻略と言う面では非常に大きな影響を与えた事件となった。

1878618日,噶瑪蘭族と清軍との間で食料を巡っての争いが起った。噶瑪蘭族は、鵲子鋪(今の花蓮縣新城郷嘉里、北埔交界)の軍キャンプ地を攻撃、清軍副將の陳德勝は受傷、參將の楊玉貴が死亡した。夏獻綸、光亮は福建省知事の贊誠に報告、清朝廷に対し、原因究明を行う旨を伝えた。夏獻綸達の調査によると、食料購入については、以前から漢人の噶瑪蘭族に対する嫌がらせが続発しており、特に、噶瑪蘭族の女性に対しての嫌がらせが頻繁に起こっていた。噶瑪蘭族は母系社会のため、女性が嫌がらせに会うという事は許しがたいことであり、その怒りが積もりに積もって、爆発したものであることがわかった。

清側は、文官を加禮宛社に送り込み、噶瑪蘭族をなだめた。その結果、噶瑪蘭族達の怒りは徐々に収まっていった。しかし、その一方で清軍は、張兆連の海軍を町の近くに派遣していた。一旦収束したかに見えた噶瑪蘭族の怒りは再び爆発し、參將の文毓麟等十人を殺害した。これにより、清は加禮宛社に対し武力を以って鎮圧することを決めた。

 贊誠は、孫海華を司令官とする大隊を花蓮港から新城郷へ派遣、兵力の2000人以上を増員した。1878年9月5日、米崙山の地形を探索している際に噶瑪蘭族に襲われ、清軍数名が死傷した。そこで、孫海華は、撒奇萊雅族の達固湖灣部落を先に攻撃し鎮圧、加禮宛社を孤立させる作戦に出た。

達固湖灣部落へ進攻してきた清軍。これに対し、達固湖灣部落の撒奇萊雅族は応戦。さらに、噶瑪蘭族・加禮宛社の頭目、達甫‧瓦努(Dafu Wanu)は達固湖灣部落の応援に駆け付けた。しかし、軍力に勝る清軍は圧勝。達甫‧瓦努(Dafu Wanu)始め、多くの原住民が死亡した。

 当時、達固湖灣部落周辺は深い竹林に覆われていた。当初はこの竹林に阻まれて清軍は進攻出来なかったが、他の原住民から「入り口は3か所ある」という情報を入手した清軍はそこから攻め入り、部落内に居た撒奇萊雅族を攻撃した。また、清軍は竹林に火を放ち、部落ごと焼き討ちにする作戦に出た。

達固湖灣部落の頭目は仲間と話し合いを行い、その結果、頭目の古穆·巴力克(Komod Pazik)とその妻伊婕·卡娜蕭(Icep Kanasaw)が清軍に降伏の意思を伝えに行った。清軍は二人を捕らえた。二人は生きたまま生皮を剥がされ、焼き殺されたのである。

その様子を、撒奇萊亞族や阿美族に、まるで、ニワトリやサルを殺傷しているのと同じ様に、傍観しておくように清軍は命じたのである。生き残った撒奇萊雅族達はこの事に恐れを覚え、阿美族の中へと逃げ込み、2007年まで、阿美族として生きてきた。

惨殺された頭目の古穆‧巴力克(Komod Pazik)を「火神」,夫人の伊婕‧卡娜蕭(Icep Kanasaw)を「火神太」として祀り、200671日,撒奇萊雅族(Sakizaya)は花蓮市國福部落にて火神祭(Palamal)を行い、祖先の霊をお祀りした。

 同年97日の早朝、清軍が再び加禮宛社を攻撃、噶瑪蘭族は敗北し、撤退した。清軍はその後を追いかけたが、道路状況の悪さと雑草が生い茂っていたため、清軍は一旦、撤収した。

翌日の未明、吳光亮は、南側の竹林から進攻、孫開華は西南方向から密かに進軍し、米崙溪を挟んで加禮宛社に攻撃を仕掛けた。正午には、孫軍が噶瑪蘭族の防護柵を突破し、100人以上の噶瑪蘭族を惨殺した。残りの噶瑪蘭族は逃亡したが、清軍は、太魯閣族を味方につけ、逃げた噶瑪蘭族を追尾。最終的に噶瑪蘭族は四方を敵に囲まれ降伏するしかなかった。

 2009年,噶瑪蘭族、撒奇萊雅族は事件発生現場に「加禮宛大社紀念碑」を建立し、堅固な誓約を表す石葬式を行った。

 

*文中、民族の名前は中国語表示(漢字)とローマ字(原住民は文字を持たないため、彼らの発音をローマ字として表記)の両方で記載させて頂きました。私個人的には、漢字表記は好きではありません。これはあくまでも、清の時代に、中国人が読みやすいように、発音に当て字をしているだけの事です。文字そのものに意味はありません。故に、ローマ字表記もさせて頂きました。


 











事件現場に建てられた記念碑

1900年に鳥居龍藏氏が撮影した加禮宛の噶瑪蘭族人

*1 牡丹社事件

  1871年(明治4年)10月、台湾に漂着した宮古島島民54人が殺害される事件(宮古島島民遭難事件)が発生した。この事件に対して、清政府が「台湾人は化外の民で清政府の責任範囲でない事件(清政府が実効支配してない管轄地域外での事件)」としたことが責任回避であるとして、日本側が犯罪捜査などを名目に出兵した。原因が54人殺害という大規模な殺戮事件であることを理由に、警察ではなく軍を派遣した。開国後の日本としては初の海外派兵である(征台の役・台湾事件)。

 

*2 沈 葆楨(1820 - 1879年)は、清末の官僚。字は翰宇・幼丹。妻の林普晴は林則徐の娘。子は沈瑋慶・沈瑩慶・沈瑜慶・沈璘慶・沈璿慶・沈瑤慶・沈琬慶。変法運動の支持者の一人林旭は孫娘沈鵲応(沈瑜慶の娘)の夫で、中華民国の外交官沈覲鼎は曾孫にあたる。福建省侯官県(現在の福州市鼓楼区)出身。

清末の洋務運動で中心的な役割を果たし、総理船政大臣及び南洋通商大臣を歴任した。台湾出兵(牡丹社事件)の際には欽差大臣として台湾に赴任し軍務を監督した。また任期内に台南市二鯤鯓砲台の修復を行なうと共に、漢人の渡台禁令を解除している。

 

*3 羅大春は、貴州省出身の清の役人であり、湖南省軍の将軍。北部台湾の防衛及び主要建物建造の責任者でもあった。  

 

*4 丁 日昌(1823 - 1882年)は、中国清末の軍人・官僚。字は禹生または雨生、号は持静。潮州府豊順県の出身。洋務運動の中心人物の一人。 

 

*5 吳光亮(1834年-1898年),は、清の軍人。字は霽軒。廣東省南韶連道韶州府英德縣(今廣東省清遠市英德市)出身。後に南澳鎮總兵となる。 



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