東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 銅門祠(神社)跡、銅門村、銅門発電所 【花蓮縣秀林郷】
【銅門祠】
銅門祠(神社)は昭和11年(1936年)6月27日に鎮座されました。主祭は、開拓三神と北白川宮能久親王です。
当時の新聞、台湾日日新報によると、鎮座式の式典は午前10時に始まり、花蓮港廰長の藤村寛太氏や警務課長の手貝千芳氏らが出席。式典後の祝賀晩餐会では、祭典委員長が神社事業の進捗状況を報告し、銅門小学校の児童で聖母会会員らが踊りを披露しました。
しかし、昭和19年(1944年)には銅門地区で洪水が発生し、銅門祠や近くの銅門発電所も被害を受けたとされています。
1990年6月23日、銅門地区で大規模な土砂崩れが発生し、銅門祠や銅門村の12番地と13番地が被害に遭い、大勢の人が亡くなりました。
銅門は以前「同門」と呼ばれていましたが、これはもともと東に移住したセデック族(賽德克族)の地名の音訳(Dowmung)で「山の麓の平らな土地」を意味します。約 300 年前、もともと濁水川の主流である霧社川流域の霧社に住んでいたセデック族は、中央山脈の主稜線の奇萊山、能高山を東に越えて、木瓜川河岸段丘にやって来て、この付近一帯を慕谷慕魚(Mqmgi)と名付け、この地を開墾しました。
もともと霧社川上流に住んでいたセデック族も、中央山脈を東に越えて移住し、太魯閣山脈を隔てた木瓜川流域の北側の立霧川流域に入り、太魯閣族と名乗るようになりました。
日本統治時代末期の昭和14年(1939年)に、「清水第一発電所」(現清水発電所)、昭和16年(1941年)に、「清水第二発電所」と次々と水力発電所を建設しました。さらに、同年には、「初音発電所」、昭和18年には「銅門発電所」を完成させ、この二つの発電所を結ぶ東西高圧送電線の建設が計画されましたが、横断道路拡張工事に伴い、送電線の基礎工事の段階で中止となりました。
1943年に銅門発電所が完成しました。一日17万kwの発電をおこなっています。(花蓮全体では一日平均35万kwの電力が消費されています)
花蓮には現在、10か所の水力発電所があります。これらは全て、日本統治時代に作られた発電所が基になっています。何故、花蓮に10か所もの発電所が建設されたかと言いますと、当時、花蓮港の近くにアルミ工場がありました。ここで生産されたアルミは日本へと出荷され、戦闘機などの製造に使用されていました。このアルミ工場に電力を供給するために10か所もの発電所が建設されたのです。
そこで当時の日本人技師が考えたのが、「いっそうの事、発電機を山の中へ入れてしまえば被害は受けない」という奇想天外なものでした。早速、図面の作成に入り、試行錯誤の結果、地下発電方式という画期的な発電方式を見出したのです。
しかし、終戦を迎え、日本人は本国への強制送還を余儀なくなれました。日本へ戻る際、日本人技師達は、地下発電の設計図を台湾人技師に託し、戦後、アメリカの協力を得て、地下発電所は完成されました。
『慕谷慕魚』というのはもともと台湾の原住民である『太魯閣族』がこの一帶を『慕谷慕魚』と呼んでいたことから付けられた名前です。太魯閣語では、Mukumugiと発音します。意味は二通りの意味があり、一つは、初めにこの地にたどり着いた太魯閣族の人々がこの地をその自然の豊かさ、景観の美しさから『世外桃源』(世俗を外れた桃源郷)と称したという意味と、Mukumuというのが、「どこから来たの?」という意味で、「gi」というのが「北」という意味があり、北の方から来た人達が住んでいるところという意味にも解釈されるそうです。
【奇萊山命名秘話】
太魯閣戦争の際、西側から奇萊山を越えて進軍する日本軍。しかし、奇萊山は非常に険しい山で、日本軍が進軍するために作られた簡易軍事路は道幅も狭く、危険な道でした。さらには、軍事路のさらに上の方から、太魯閣族による奇襲攻撃が続発。日本軍の兵士たちはこの奇萊山の山越えを非常に嫌っていました。故に、この山に差し掛かると「この山はきらいだ」と兵士たちが常に言っていたそうで、それを聞いていた道案内の原住民達が「この山は、『きらい』という名の山なのだ」と勘違いし、いつの間にかこの山を「きらい山」と呼ぶようになりました。この「きらい」という発音が漢字表示されたのが「奇萊(チーライ)」となり、「奇萊山」と名付けられたと言われています。
【参考資料】
*劉智淵著 後山電力博物館-獨具風格的東部發電廠 台灣電力公司. 2008-11(台電月刊第551期)[2013-12-23]
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