東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 カウワン(卡烏灣)神社(景美神社)跡と威里事件 【花蓮縣秀林郷】
【カウワン(卡烏灣)神社(景美神社)跡】
この学校に古い門柱が建っていますが、実はこの門柱は、日本統治時代のカウワン(加湾)駐在所の門柱です。当時は、原住民の部落には必ず一か所、駐在所が設けられていました。
景美小学校のすぐ北側(学校に向かって右側)に、細い山道があります。うっかりしていると見落としてしまうほどの細い道ですから注意してください。
この道を山中へと進んでいくと、突然、大きな鳥居が現れます。筆者が最初にここを訪れた時は、周りは草木がうっそうと茂っており、そこに突然姿を現した鳥居に、思わず声が出てしまいました。今は、地元住民によって草木は伐採され、当時の階段も姿を現しています。
ここが、1938年(昭和13年)3月9日に鎮座したカウワン(卡烏灣)神社、別名、景美神社跡です。ここも本殿は戦後、国民党軍によって破壊されました。今は鳥居と拝殿・本殿跡が残されています。
ここを訪れる際は、足場が悪いので十分に気を付けてください。また、夏場は蛇(毒蛇)が出る危険性もありますので、出来れば、長靴を用意した方が良いかも知れません。
【佳民部落/威里事件】
この賀田組の警備を担当していたのが、山から平地に住むようにという日本側からの要請に応じて平地に移り住んだ太魯閣族でした。一方で、日本側の要請には応じず、最後まで日本側に抵抗した太魯閣族が山で生活をしていました。
賀田組はこの太魯閣族達との間で、威里社区をはじめ7つの社区(集落)と土地の賃貸借契約を締結していた。契約内容によると、賃料は、毎年年末に、200円を支払うというものになっていたのですが、当時の原住民には契約観念というものがなく、賀田組に対し、太魯閣族を代表して、威里社区の長老より夏の時点で、賃料を支払ってほしいと訴えてきた。賀田組は熟慮したうえで、とりあえず半分の100円を、威里社区の長老に支払い、皆に分配するように依頼したのだが、この長老は、自分達の親族だけでその100円を分け、他の者への分配をしなかったため、これに腹を立てた他の太魯閣族が、長老の親族に対して発砲し、負傷させるという事件が発生した。
明治39年(1906年)7月30日、賀田組脳丁(木こり)2名が西拉丘社(現在の實仔眼社)で首を切られて殺害されるという事件が発生。
この事件のきっかけは、シラガン社区(地区の名前)の太魯閣族が威里社区の耕作地を荒し、その解決を図るために頭目同士が話し合いを行ったが決着しなかった。この様な場合、当時の太魯閣族の習慣では、無関係の第三者の首を狩るというものがあり、その犠牲に遭ったのです。
偶然、威里社区の太魯閣族3人がシャポタワ地区で日本人5人を殺害し、首を5つ持ち帰ったのです。そして、雄たけびを上げながら、その首を突き上げ、集落の人間に見せびらかし、自分達を誇示したのです。
これを見た他の若い太魯閣族達は突然興奮し始め、銃を手に取り、100円を着服した長老に対し「貴様は我らのお金を着服した盗人なり」と長老の銃を向け、騒乱状態になりました。その場から命からがら逃げてきた長老は喜多川主任に対し、「我らは彼らと戦う。日本人の皆さんは今すぐここから逃げろ」と告げた。
喜多川主任は事務所に居た従業員に対し「危険だ。すぐに逃げろ」と叫んだ。大山支廰長は山上にいる脳丁達全員を収容していました。その時、山田海三が事務所から出てきたのを目撃した太魯閣族達は一斉射撃を開始したのです。
事務所にあったヒノキや樟脳、武器、弾薬を略奪した後、小川巡査をはじめ、16名の賀田組事務員が拉致し、事務所の中の金目の物すべてを略奪、山へと逃げていったのです。
拉致された16名の内、2名のみが逃亡に成功し生還しましたが、後の14名に関してはその後も発見することは出来ませんでした。
記録によれば、一度にこれだけの一般人が太魯閣族によって殺害されたのは、日本が台湾を統治して以降、初めての悲劇でした。
山田海三(鹿児島県出身) 喜多川貞二郎(愛媛県出身) 橋本愛吉(島根県出身) 吉井宗吉(鹿児島県出身) 八木政孝(愛媛県出身) 西勇次郎(長崎県出身)
増山常太郎(高知県出身) 川崎富蔵(大分県出身) 岡田徳太郎(高知県出身) 牟田初次(長崎県出身) 井上彌之助(高知県出身) 山口鹿蔵(大分県出身) 小川高次(高知県出身) 椎野三治(熊本県出身) 増山長太郎(高知県出身)
馬場藤吉(東京府出身:当時はまだ東京は府でした) 木村房太郎(広島県出身)
色魔多吉(出身地不明)
石田實太郎(兵庫県出身)
前原市次郎(鹿児島県出身) 前原助次郎(鹿児島県出身) 松久保多吉(鹿児島県出身) 小林彌吉(広島県出身) 吉本一(熊本県出身) 徳永七助(長崎県出身)
次に、7月31日に威里渓(ウイリ川)付近において殺害された方々のお名前を列記させて頂きます。(敬称略)被害者総計5名
藤井好五郎(鹿児島県出身) 藤井繁吉(鹿児島県出身) 久保見嘉助(鹿児島県出身) 平田彦市(鹿児島県出身) 松井五太郎(鹿児島県出身)
平賀信泰(東京府出身) 渡邊一郎(広島県出身) 安友時蔵(広島県出身) 杉宇一(山口県出身) 井上武次郎(愛媛県出身)
安河内浅太郎及び妻のミツ(福岡県出身) 野網市五郎(長崎県出身) 吉岡保太(広島県出身) 岩村徳太郎(広島県出身) 高橋助作(広島県出身) 藤井庄次郎(広島県出身) 前原徳松(広島県出身) 三吉好五郎(広島県出身)
藤井貞一(出身地不詳)
井上武次郎 安河内夫婦
彼が眼にしたのは、血の海となった事務所と敷地であった。同行したものや、現場検証に来ていた警察官でさえ嘔吐する様な凄惨な現場。そこに仁王立ちし、握った拳を震わせ、怒りと悲しみで大粒の涙を流す賀田金三郎がいた。
この事件で命を落とした事務員以下脳丁、大工、左官、雑役に至るまで、すべての遺族に対し、一時金を支払い、さらに、8月10日には、五代目台湾総督の佐久間左馬太に対し、請願書を提出。そこには、今回の事件の経緯から始まり、それまでも多くの被害者を出していた太魯閣族による首狩りに対し、何も講じなかった台湾総督府に対し、「東台湾の開拓は、日本国においても重要な政策なるが、これを成し得るためには、原住民の討伐無くしては成し得ない」との趣旨を訴えたのです。
尚、文面は原文のまま記述。
金三郎不肖を顧みず、督府(台湾総督府)の特別なる保護の下、台東廰下の蕃地拓殖を計画するや、当局其人を得るに於いて、すこぶる困難を感じたりしたが、故山田海三君以下の諸氏が余の計画を翼賛(よくさん)(力を添えて助けること)し、奮って威里渓脳寮に赴き、豪昧未開の蕃地に熱心誠意業務に従事せらるること、玆に年あり拓殖の業、着々として其歩を進めしが、何ぞ団らん一朝不慮の蕃害(原住民による襲撃)に遭遇せられんとは、これ独り業主たる不肖金三郎にみならず、本島の官民諸氏が擧って遭難32氏の災厄を痛悼し、其遺族諸氏の不幸に満腔(まんこう)(心底、心から)の同情を表すと共に、斯業の発展の為に深く遺憾とせらるるところなり。
然れども、諸氏既に深く未開の蕃界に入る初めより、心中大いに決するところありたる。なるべく恰(あた)かも蕃地拓殖の為又は学術探検の為、深くアフリカ他の未開地に入りて遭難せし欧米の企業者冒険者を以って自ら期せられたる。なるべく遭難諸氏の勇気と壯(そう)心(しん)(年をとっても志が衰えない)とは、懦夫(だふ)(おくびょうな男。意気地なし)をして奮起せしめるに足りる。
嗚呼諸氏は本島蕃地拓殖者の先鞭としてその業務に殉せられたりと雖(いえど)も、諸氏の経営せし事業は蕃地拓殖に於いて千載不滅(千載不朽:いつまでも朽ちることなく残る)の記念物なり。また、強固なる一大基礎なり。吾等は遭難諸氏の遺志を継ぎ、其の建てたる大基礎により、勇往邁進誓って、当初の目的を貫徹せんことを期す。諸氏在天の霊、願わくば慰むる所あれ。嗚呼悲哉。
明治39年8月21日 賀田組店主 賀田金三郎」
という内容であった。
また、先の文章内では、「長老が賀田組から支払われたお金を分配しなかった」ことが原因と記しているが、別の説には、ある太魯閣族の家庭で、父親が未だ一度も首狩りをしたことのない息子を罵倒。これに憤慨した息子が、最初の脳丁二名の殺害を行ったことが発端とも言われています。
【威里事件秘話1】
【威里事件秘話2】
しかし、彼はキリスト教徒であったがために、相手の命を奪うという敵討ちは出来なかった。そこで彼が取った行動は、命の尊さを原住民たちに教え、首狩りという野蛮な行為を辞めさせる事であった。そのために、彼は台湾へ渡り、キリスト教の布教活動を行った。
太魯閣族などは独自の宗教、「ガヤ」という自然の神を崇拝する習慣があったため、当初は布教活動は一向に進まなかった。
一旦、日本に帰国した伊之助は、布教活動中に見た原住民たちの生活、特に、医療の面では、未だに、神に祈念するしかないという状況を見て、医師免許を取得し、医師として再び台湾へ渡った。
父親の命を奪った原住民専門の医師となり、彼らの命を救う活動を行った。原住民たちは「彼の父親の命を奪った我々の命を救う。そんな事ができるのは、キリスト教の教えがあるからだ」と知り、その後、原住民の間で一気にキリスト教が広まった。現在も、原住民の多くはキリスト教徒である。
伊之助は戦後も台湾に残り中国名まで取得したが、228事件の際、蒋介石から「あなたは日本人。直ぐに日本へ帰れ」と命じられ、強制送還された。
カウワン(卡烏灣)神社(景美神社)跡
佳民部落入口に戦後建立された威里事件に関する石碑と説明石板
内容は、原住民側の言い分が採用されています
日本統治時代に建立された威里事件魂碑
*景美神社:台湾鉄道 景美駅下車 徒歩15分
【参考文献】
播磨憲治 知って欲しい 台湾を近代化に導いた人物 賀田金三郎
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