東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 カウワン(卡烏灣)神社(景美神社)跡と威里事件 【花蓮縣秀林郷】

 【カウワン(卡烏灣)神社(景美神社)跡】

 三桟(布旦部落)から車で5分ほど南下したところに、加湾部落があります。ここも太魯閣族の部落。台湾鉄道の踏切を越え、そのまま西(山側)に進むと、景美国民小学校が現れます。

この学校に古い門柱が建っていますが、実はこの門柱は、日本統治時代のカウワン(加湾)駐在所の門柱です。当時は、原住民の部落には必ず一か所、駐在所が設けられていました。

景美小学校のすぐ北側(学校に向かって右側)に、細い山道があります。うっかりしていると見落としてしまうほどの細い道ですから注意してください。

この道を山中へと進んでいくと、突然、大きな鳥居が現れます。筆者が最初にここを訪れた時は、周りは草木がうっそうと茂っており、そこに突然姿を現した鳥居に、思わず声が出てしまいました。今は、地元住民によって草木は伐採され、当時の階段も姿を現しています。

ここが、1938年(昭和13年)39日に鎮座したカウワン(卡烏灣)神社、別名、景美神社跡です。ここも本殿は戦後、国民党軍によって破壊されました。今は鳥居と拝殿・本殿跡が残されています。

ここを訪れる際は、足場が悪いので十分に気を付けてください。また、夏場は蛇(毒蛇)が出る危険性もありますので、出来れば、長靴を用意した方が良いかも知れません。

 

【佳民部落/威里事件】

 さて、加湾部落の中を通りながら、さらに車で十分ほど南へ進みましょう。途中、道路際には、日本統治時代に出来た「トウチカ」がいくつか残されています。当時は、24時間、このトウチカの中で、暑さと無数の蚊に耐えながら、日本兵の方々が交代で、太平洋と西側の中央山脈の両方に神経を尖らせていたのだと思うと、胸が熱くなります。

 到着したのが、佳民部落。ここも太魯閣族の部落です。実はこの佳民部落の山中で、1906年(明治39年)悲劇が起こったのです。

 当時、賀田金三郎が社長を務める賀田組は、花蓮威里社区内(現在の秀林郷佳林部落)に樟脳を作る製脳事務所を設けていました。この付近一帯で樟脳の原料となるクスノキの伐採を行っていたのです。

 樟脳は今でこそ、防虫剤として使うものという程度にしか思われていませんが、当時は、外貨獲得のための貴重な製品だったのです。と言うのも、当時、アメリカのハリウッドでは映画全盛期を迎えており、その映画撮影用のフィルムの原料として樟脳が使われていたのです、また、爆薬の原料、医薬品としても幅広く使われていました。

 威里社区一帯には、太魯閣(タロコ)族が住んでいました。彼らには、首狩りの習慣があったため、賀田組は東台湾開発を始めた当初からこの太魯閣族からの襲撃に備え、明治36年(1903年)金三郎は、台湾総督府より、銃3,000丁、弾薬30万発、大砲4門を購入し、各地で警備にあたっていた。と、言うのも、当時、東台湾では警察官が不足しており、自分達で警備するしか方法がなかったのです。

この賀田組の警備を担当していたのが、山から平地に住むようにという日本側からの要請に応じて平地に移り住んだ太魯閣族でした。一方で、日本側の要請には応じず、最後まで日本側に抵抗した太魯閣族が山で生活をしていました。

賀田組はこの太魯閣族達との間で、威里社区をはじめ7つの社区(集落)と土地の賃貸借契約を締結していた。契約内容によると、賃料は、毎年年末に、200円を支払うというものになっていたのですが、当時の原住民には契約観念というものがなく、賀田組に対し、太魯閣族を代表して、威里社区の長老より夏の時点で、賃料を支払ってほしいと訴えてきた。賀田組は熟慮したうえで、とりあえず半分の100円を、威里社区の長老に支払い、皆に分配するように依頼したのだが、この長老は、自分達の親族だけでその100円を分け、他の者への分配をしなかったため、これに腹を立てた他の太魯閣族が、長老の親族に対して発砲し、負傷させるという事件が発生した。

明治39年(1906年)7月30日、賀田組脳丁(木こり)2名が西拉丘社(現在の實仔眼社)で首を切られて殺害されるという事件が発生。

この事件のきっかけは、シラガン社区(地区の名前)の太魯閣族が威里社区の耕作地を荒し、その解決を図るために頭目同士が話し合いを行ったが決着しなかった。この様な場合、当時の太魯閣族の習慣では、無関係の第三者の首を狩るというものがあり、その犠牲に遭ったのです。

 この情報が、同日午後12時に花蓮港支廰長であった大山十郎の元に入電、大山支廰長は、実態調査と遺体回収に現地へ向かいました。

 賀田組威里事務所では、女性と子供をまずは避難させ、その後、残り全員の避難を検討。避難するか否か、激しい議論が続く中、太魯閣族長老が、「今、引き上げると、他の太魯閣族達を逆に刺激してしまう可能性が高いため危険である」と異論を唱えた。賀田組威里事務所の喜多川貞二郎主任はこの忠告に従う事にした。

 一方、大山支廰長は阿部巡査、小川巡査、賀田組職員の山田海三を従え、牛車6台を用意して現地入りした。そして、切迫した情勢を見て、「従業員全員を避難させるべきである」と判断し、喜多川主任に引き揚げを指示した。当初は、「長老の言うことが正しい。今は静観すべきである」と主張していた喜多川主任であったが、最終的には引き揚げを了承しました。

 太魯閣族達は、日本人全員が引き揚げるのであれば残りのお金は貰えなくなるのではないかと心配しながら、彼らの動静を見ていました。しかし、ここでまた、不幸な事が起こったのです。

偶然、威里社区の太魯閣族3人がシャポタワ地区で日本人5人を殺害し、首を5つ持ち帰ったのです。そして、雄たけびを上げながら、その首を突き上げ、集落の人間に見せびらかし、自分達を誇示したのです。

これを見た他の若い太魯閣族達は突然興奮し始め、銃を手に取り、100円を着服した長老に対し「貴様は我らのお金を着服した盗人なり」と長老の銃を向け、騒乱状態になりました。その場から命からがら逃げてきた長老は喜多川主任に対し、「我らは彼らと戦う。日本人の皆さんは今すぐここから逃げろ」と告げた。

喜多川主任は事務所に居た従業員に対し「危険だ。すぐに逃げろ」と叫んだ。大山支廰長は山上にいる脳丁達全員を収容していました。その時、山田海三が事務所から出てきたのを目撃した太魯閣族達は一斉射撃を開始したのです。

 大山支廰長、喜多川主任、山田職員、阿部巡査を含む27名の職員が午前11時頃、太魯閣族の集団による銃弾の前に倒れ、彼らは、全員の首を狩って殺害。さらに、事務所付近に居た5名の脳丁(木こり)も同様の手口で殺害。

事務所にあったヒノキや樟脳、武器、弾薬を略奪した後、小川巡査をはじめ、16名の賀田組事務員が拉致し、事務所の中の金目の物すべてを略奪、山へと逃げていったのです。

拉致された16名の内、2名のみが逃亡に成功し生還しましたが、後の14名に関してはその後も発見することは出来ませんでした。

記録によれば、一度にこれだけの一般人が太魯閣族によって殺害されたのは、日本が台湾を統治して以降、初めての悲劇でした。

 ここで、730日から翌日にかけて威里渓(ウイリ川)において殺害された方々のお名前を列記させて頂きます。(敬称略)被害者総計27

 ≪花蓮港支廰長≫ 大山十郎  

 ≪花蓮港支廰巡査≫ 阿部虎之介

 ≪賀田組事務員≫ 

山田海三(鹿児島県出身) 喜多川貞二郎(愛媛県出身) 橋本愛吉(島根県出身) 吉井宗吉(鹿児島県出身) 八木政孝(愛媛県出身) 西勇次郎(長崎県出身)

 ≪脳丁≫

増山常太郎(高知県出身) 川崎富蔵(大分県出身) 岡田徳太郎(高知県出身) 牟田初次(長崎県出身) 井上彌之助(高知県出身) 山口鹿蔵(大分県出身) 小川高次(高知県出身) 椎野三治(熊本県出身) 増山長太郎(高知県出身)

 ≪左官≫

馬場藤吉(東京府出身:当時はまだ東京は府でした) 木村房太郎(広島県出身)

 ≪大工≫

色魔多吉(出身地不明)

 ≪鉄道工夫≫

石田實太郎(兵庫県出身)

 ≪雑役≫

前原市次郎(鹿児島県出身) 前原助次郎(鹿児島県出身) 松久保多吉(鹿児島県出身) 小林彌吉(広島県出身) 吉本一(熊本県出身) 徳永七助(長崎県出身)

 

次に、731日に威里渓(ウイリ川)付近において殺害された方々のお名前を列記させて頂きます。(敬称略)被害者総計5

 ≪脳丁≫

藤井好五郎(鹿児島県出身) 藤井繁吉(鹿児島県出身) 久保見嘉助(鹿児島県出身) 平田彦市(鹿児島県出身) 松井五太郎(鹿児島県出身)

 次に、731日、吉魯社において拉致された方々(敬称略)総計16

 ≪巡査≫ 小川何某

 ≪賀田組事務員≫

平賀信泰(東京府出身) 渡邊一郎(広島県出身) 安友時蔵(広島県出身)  杉宇一(山口県出身) 井上武次郎(愛媛県出身)

 ≪脳丁≫

安河内浅太郎及び妻のミツ(福岡県出身) 野網市五郎(長崎県出身) 吉岡保太(広島県出身) 岩村徳太郎(広島県出身) 高橋助作(広島県出身) 藤井庄次郎(広島県出身) 前原徳松(広島県出身) 三吉好五郎(広島県出身)

 ≪小使≫

藤井貞一(出身地不詳)

 ≪解放された方≫

井上武次郎  安河内夫婦

 事件の一報が、台北賀田組本社にいた賀田金三郎に届くや、すぐに花蓮へと向かった。当時は、道路も鉄道もないため、船で夜を徹して花蓮へと向かい、81日、賀田金三郎は自分の大切な従業員が惨殺された現場に到着。

彼が眼にしたのは、血の海となった事務所と敷地であった。同行したものや、現場検証に来ていた警察官でさえ嘔吐する様な凄惨な現場。そこに仁王立ちし、握った拳を震わせ、怒りと悲しみで大粒の涙を流す賀田金三郎がいた。

 彼は、賀田組花蓮事務所に戻ると直ぐに善後策打ち立て、実行へと移しました。

この事件で命を落とした事務員以下脳丁、大工、左官、雑役に至るまで、すべての遺族に対し、一時金を支払い、さらに、810日には、五代目台湾総督の佐久間左馬太に対し、請願書を提出。そこには、今回の事件の経緯から始まり、それまでも多くの被害者を出していた太魯閣族による首狩りに対し、何も講じなかった台湾総督府に対し、「東台湾の開拓は、日本国においても重要な政策なるが、これを成し得るためには、原住民の討伐無くしては成し得ない」との趣旨を訴えたのです。

 また、威里事件発生後も太魯閣族の襲撃は収まらず、819日には、威里事件の現場からさらに南、現在の光復郷の山中で、賀田組の脳丁12名が襲撃に遭い、内2名が幸いにも難を逃れ、馬太鞍派出所に急報、警察官が直ちに、阿美族に応援を要請し、300名余りの阿美族と共に、さらに、花蓮港支廳からも隊員が応援に駆け付けたが、現場はあたり一面血の海で、その中に、首のない十名の遺体が転がっているという悲惨な現場であったとの記録が残されています。

 明治39年(1906年)821日、賀田金三郎が祭主となり、台北淡水館にて威里事件で亡くなった山田海三氏他31名の追悼法要が営まれた。縁故者以外にも官民から大勢が参列した。賀田金三郎は以下の祭文を涙ながらに読み上げました。

尚、文面は原文のまま記述。

 「明治39821日、祭壇を淡水館に設け謹みて、過般台東廰(当時花蓮はまだ、台東廰であった)下太魯閣脳寮(樟脳の原料となる楠の伐採場兼加工場)に於いて遭難せられたる故山田海三君外31氏の霊を祭る惟るに、蕃地(原住民の住む場所)拓殖は本島刻下の急務なり。

金三郎不肖を顧みず、督府(台湾総督府)の特別なる保護の下、台東廰下の蕃地拓殖を計画するや、当局其人を得るに於いて、すこぶる困難を感じたりしたが、故山田海三君以下の諸氏が余の計画を翼賛(よくさん)(力を添えて助けること)し、奮って威里渓脳寮に赴き、豪昧未開の蕃地に熱心誠意業務に従事せらるること、玆に年あり拓殖の業、着々として其歩を進めしが、何ぞ団らん一朝不慮の蕃害(原住民による襲撃)に遭遇せられんとは、これ独り業主たる不肖金三郎にみならず、本島の官民諸氏が擧って遭難32氏の災厄を痛悼し、其遺族諸氏の不幸に満腔(まんこう)(心底、心から)の同情を表すと共に、斯業の発展の為に深く遺憾とせらるるところなり。

然れども、諸氏既に深く未開の蕃界に入る初めより、心中大いに決するところありたる。なるべく恰(あた)かも蕃地拓殖の為又は学術探検の為、深くアフリカ他の未開地に入りて遭難せし欧米の企業者冒険者を以って自ら期せられたる。なるべく遭難諸氏の勇気と壯(そう)(しん)(年をとっても志が衰えない)とは、懦夫(だふ)(おくびょうな男。意気地なし)をして奮起せしめるに足りる。

嗚呼諸氏は本島蕃地拓殖者の先鞭としてその業務に殉せられたりと雖(いえど)も、諸氏の経営せし事業は蕃地拓殖に於いて千載不滅(千載不朽:いつまでも朽ちることなく残る)の記念物なり。また、強固なる一大基礎なり。吾等は遭難諸氏の遺志を継ぎ、其の建てたる大基礎により、勇往邁進誓って、当初の目的を貫徹せんことを期す。諸氏在天の霊、願わくば慰むる所あれ。嗚呼悲哉。

明治39821日 賀田組店主 賀田金三郎」

という内容であった。

 大正5年(1916年)11月、賀田金三郎は石工・井上十造に「賀田組拓殖部の墓」を作らせ、呉全城賀田村の賀田金三郎邸の近くに建立した。お墓は現在も存在している。(花蓮縣壽豐郷呉全公墓内)

 

 【威里事件裏話】

 この事件に関しては色々な見解があります。原住民の学者の中には、「賀田組の雇用条件が過酷で、給金もまともに支払わなかったことに腹を立てた原住民が、反乱を起こした。」という説もあるが、これは、当時の様々な記録を紐解いていくと、無理のある節と考えられます。

また、先の文章内では、「長老が賀田組から支払われたお金を分配しなかった」ことが原因と記しているが、別の説には、ある太魯閣族の家庭で、父親が未だ一度も首狩りをしたことのない息子を罵倒。これに憤慨した息子が、最初の脳丁二名の殺害を行ったことが発端とも言われています。

 

【威里事件秘話1】

 実際にこの威里事件に関わった太魯閣族の子孫の方より直接聞いた話ですが、事件現場となった場所にはその後、夜になると人の叫び声や泣き声が聞こえると言うウワサが流れ、近づく者はいなかったそうです。今もその話は語り継がれており、今でも近づく者はほとんどおらず、その結果、正確な威里事件現場がわからなくなってしまいました。


【威里事件秘話2】

 この事件の犠牲者の一人、井上弥之助の息子に、井上伊之助という人物がいる。伊之助は事件後、「父の敵を取る」と固く心に誓った。

しかし、彼はキリスト教徒であったがために、相手の命を奪うという敵討ちは出来なかった。そこで彼が取った行動は、命の尊さを原住民たちに教え、首狩りという野蛮な行為を辞めさせる事であった。そのために、彼は台湾へ渡り、キリスト教の布教活動を行った。

太魯閣族などは独自の宗教、「ガヤ」という自然の神を崇拝する習慣があったため、当初は布教活動は一向に進まなかった。

一旦、日本に帰国した伊之助は、布教活動中に見た原住民たちの生活、特に、医療の面では、未だに、神に祈念するしかないという状況を見て、医師免許を取得し、医師として再び台湾へ渡った。

父親の命を奪った原住民専門の医師となり、彼らの命を救う活動を行った。原住民たちは「彼の父親の命を奪った我々の命を救う。そんな事ができるのは、キリスト教の教えがあるからだ」と知り、その後、原住民の間で一気にキリスト教が広まった。現在も、原住民の多くはキリスト教徒である。

伊之助は戦後も台湾に残り中国名まで取得したが、228事件の際、蒋介石から「あなたは日本人。直ぐに日本へ帰れ」と命じられ、強制送還された。

 

 

威里事件を台湾総督府に知らせる打電内容
台湾國史館提供



カウワン(卡烏灣)神社(景美神社)跡




佳民部落入口に戦後建立された威里事件に関する石碑と説明石板

内容は、原住民側の言い分が採用されています



            日本統治時代に建立された威里事件魂碑




賀田金三郎が建立した賀田組拓殖部従業員の墓



威里事件当時の太魯閣族
2010年11月21日 新疆哲學社會科學網

 

*景美神社:台湾鉄道 景美駅下車 徒歩15分

 *佳民部落:花蓮駅より車で20分

【参考文献】

播磨憲治 知って欲しい 台湾を近代化に導いた人物 賀田金三郎

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