台湾近代化のポラリス 後藤新平人物像と名言

 

後藤新平という人物を表現する言葉は多種多様ある。

例えば、「台湾を近代化に導いた男」「日本の羅針盤となった男」「東京を復興させた男」「災害に強い都市東京の基礎を造った男」「23万人の検疫を2か月で実現した男」等々。そして、大風呂敷は有名である。関東大震災の時に内務大臣(帝都復興院総裁を兼務)に就任して帝都の復興を指揮したのも後藤であるが、この時に打ち出した帝都復興計画もあまりにもスケールが大きいため「後藤の大風呂敷が始まった」と言われた。しかし結果的にガレキと化した帝都をいち早く復興させたため「後藤でなければあれだけ早い復興はできなかった」と言われたのである。

 さらに、彼の経歴も多方面にわたり、「台湾総督府民政長官」「NHK初代総裁」「ボーイスカウト日本連盟の初代総長」「南満州鉄道初代総裁」「東京市第7代市長」「拓殖大学第3代学長」「逓信大臣」「内務大臣」「外務大臣」等々。

 行政改革者であり、都市政策の先駆者であり、台湾統治政策を成功させた後藤新平は、徹底した調査を重要視していたことは今までにも記した通りである。

台湾統治政策の実行の際にも、関東大震災の復興の際にも、この徹底した調査が功を奏している。彼のこの様な調査を重要視する姿勢は、後藤は明治32年(1890年)、後藤が満32歳の時にドイツに留学の際に身につけたものと思われる。ドイツの国勢調査の調査、集計、作業などの実態について詳細に研究し、様式なども日本に持ち帰った。その後ドイツ統計局長を訪問した日本人に対して「わが局を訪問した日本人は多数いるが、真の統計の理解者は後藤新平一人だ」と語ったとされる。

また、このドイツ留学のときに、当時すでに政権から追われていたビスマルク(統一ドイツの初代帝国宰相兼プロイセン首相)と面会しているのだが、その際、後藤著の「衛生制度論」を贈呈し観談した。するとビスマルクは「お見受けしたところ、あなたは医者というより、政治に携わるべき人物だ。日本に帰ったら医学上はもちろん、政治上でも十分活躍してください」と言われた。欧米列強の狭間で国家を統一したビスマルクの強力なリーダーシップに以前から感銘を受け尊敬していた後藤は、この言葉に大いに励まされた。

 後藤は制服好きであった。鉄道院総裁となった後藤は、鉄道員の制服を制定し、大きな話題になった。海軍士官と見間違うような制服には批判もあったが、彼はこれを強行し全員に着用させた。台湾総督府時代にも制服を制定して物議をかもした。後藤が制服にこだわったのは、服装費用の節約、機動性、安全を考えての事だったが、何より組織の士気を高めるという点にあった。

この鉄道院総裁時代の彼の執務の要諦は、『速・確・明』にあるとして、適材適所のスピード経営、現場第一主義を信条とし、鉄道独立会計の制定、経費節減、制服制定、鉄道電化計画の推進、職員教習所の設立など矢継ぎ早に実行していった。しかし一方では経費削減のため、総裁在任中に3回にわたって合計8,000人以上の人員整理をしたため批判も強く、「汽車がゴトゴト(後藤)して、シンペイ(新平)だあ」と、揶揄された。

 後藤は当時の正力松太郎読売新聞社長とも交流があった。正力は、大正12年の虎ノ門事件で懲戒免職になった後、読売新聞社の経営に携わることになり、長岡温泉にいた後藤に資金の工面を願い出た。後藤は「わかった。新聞経営はなかなか難しいそうだ。もし失敗したら、お金は返さなくてよろしい」と言って快諾してくれたのだった。しかしそのお金は、麻布の土地を担保に借金して調達してくれたもので、正力はこのことを10余年の後、後藤の死後になって初めて知り、昭和になって後藤ゆかりの水沢町に借りた金の2倍近い金を寄付した。

昭和16年(1941年)113日に、正力が、後藤新平伯13回忌に当たり、故人に対する旧恩感謝の心で水沢町(当時)に寄贈したのが、日本最初の公民館 奥州市の水沢の「後藤伯記念公民館」である。

 後藤と親交のあった社長から新作の懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」という意味を込めてCITIZENの名を贈った。このシチズン時計はやがて会社名にもなった。戦時中は敵性語規制により「大日本時計株式会社」へと社名変更をしたが、戦後「シチズン」に復活した。

 後藤新平の肝煎りで大正9年(1920年)ハルビンに設立されたのが、哈爾濱(ハルビン)学院(前身は日露協会学校)。昭和14年(1939年)には満州国に移管され満州国立哈爾濱学院となった。建学の目的は満州およびロシア外交において活躍する有能な人材を育成することにあった。同校は終戦とともに廃校となった。この間に輩出した学院生は1412名。その多くは当時の日本の政策に寄与し、終戦直後はシベリアに抑留されたが、引き上げ後は日露復興の主導力になったという。このハルビン学院の建学の精神は、自治三訣で「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」だった。

このハルビン学院の第一期生に、あの6000人の「命のビザ」発給で有名な杉原千畝がいた。ロシア語がとても優秀で、卒業後は何年かこの学校で教師を務めた。その彼からロシア語を習ったのが10期生の加藤幸四郎。京都からの留学生で、卒業後は満鉄に勤めた。ハルビンで結婚し生まれたのが、後に歌手となった加藤登紀子である。幸四郎は戦後キングレコードに勤め、一時「月の法善寺横丁」で有名になった藤島恒夫のマネージャーになり、「藤田まこと」の名付け親。

昭和4年(1929年)43日、日本性病予防協会の依頼に応じ、講演のため岡山に向け東京駅を出発した後藤新平は、米原附近で列車内で3回目の脳溢血発病。京都に下車し府立病院に入院。413日午前530分に72年間の人生に幕を下ろしたが、この間、数々の名言を残している。

ここでその一部を紹介する。

 「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするように、そしてむくいを求めぬように」

 「財を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上なり」

 「一に一を加えて億とす、これ根気なり」

 「貧乏を恥じる心が不名誉である」

 「民心の安定なくして統治なし」

 「一に人、二に人、三に人」

 「台湾の統治を生物学の原則でやる」

 「台湾はいま病人としてよこたわっている。これを健康体にしなければ……」

 「政治は、万民のためを判断基準とする王道を歩むべきで、権謀術数による覇道は排すべきだ」

 「個々の病人をなおすより、国をなおす医者になりたい」

 「国家は生きものである」

 「地震は何度でもやってくる。大きな被害を出さないため、公園と道路をつくる」

 「挫折しながらでも、何かを残そう」

 「院を建てる際、廊下を幅広くとっておけば、緊急時には多くの担架が並べられる」

 「最大の経済対策は人を育てることにある」

 「台湾統治に日本の行政を持ち込まず、旧来の行政に基づいて統治する」

 「自治の精神こそは,国家の土臺石,社會の柱であり,その土臺石と柱とがしっかりして初めて健全なる文明が建立される」

 「人は日本の歴史に50ページ書いてもらうより、世界の歴史に1ページ書いてもらうことを心掛けねばならぬ」

 「妄想するよりは活動せよ。疑惑するよりは活動せよ」

 「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」

 「吾輩がかような子供っぽい服装をして来たのは偶然ではない。理由がある。今この会長をやっているため普及宣伝ということもあるが、朝鮮であろうが、内地だろうが常にこうである。そのわけは大政治家は、しかつめらしいことばかり言っていては、だめだ。稚気がないといかんということを念頭においているので、自分を律する意味においても、常にこういう服装をしているのだ。こどもにならんと本当の大政治家にはなれんよ」

 

後藤氏はボーイスカウト経験者ではありませんが、関東大震災を期に次世代を担う子どもたちにメッセージを残しています。肉声です。

https://www.facebook.com/242942032485607/posts/3550173558429088/

 

ボーイスカウト制服姿の後藤新平


【参考文献】

和賀亮太郎 『後藤新平の話』

 

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