台湾近代化のポラリス 義和団事件
賀田金三郎は、賀田組若手従業員の中でも最年少の森からの「義和団事件とは?」という質問の答えを話し始めた。
列強国の宣教師や同じく列強国の会社は、本国政府の軍事的強迫と不平等条約を背景に宗教的信念と戦勝国であるという立場を利用し、傲岸さが入り交じった姿勢で中国社会に臨み、その優越的地位を乱用して利益を上げたり、列強国側の慣行を押付けたため、地域の住民,商人,郷紳(きょうしん:1911年までの君主制下の中国の地方社会で、社会的・文化的地位を有する人を指す。紳士・士紳・縉紳ともいう。)との衝突が増えた。
さらに植民地政策の「ライス・クリスチャン(キリスト教会の飯を食う者)」の存在が事態をさらに複雑なものにしていたのだよ。ライス・クリスチャンとは、天災や朝廷の不作為に因る飢饉で貧困に追い込まれた民衆の一部は宣教師の慈善活動に食事を求め、家族ぐるみ・村ぐるみで帰依することもあった。
また当時清国に於ける外国人商人の経済特権により打撃を被り社会的弱者となった人々の一部も庇護を求めて入信し、クリスチャンの勢力拡大に寄与した。
南方では、現地人と客家がしばしば対立して土客械闘という争いを起こしていたが、地方官は客家を弾圧することが多く、救いを求めて客家が一斉にキリスト教に入信するようなこともあった。また犯罪者や取締り対象の団体が、官憲の追及を逃れる為にキリスト教団体に属する事も見られた。
その結果、様々な事件が発生する様になった。(外国人宣教師,信者と中国民衆との確執・事件を仇教≪きゅうきょう)事件または、教案という。)
例えば、信者と一般民衆との土地境界線争いに宣教師が介入したり、教会建設への反感からくる確執といった民事事件などから発展したものが多い。
さらに、布教活動や宣教師のみならず、同じ中国人であるはずの信者も不平等条約によって強固に守られ、時には暴力を用いた事もあった。また事件は教会側に有利に妥結することが多かった。地方官の裁定に不満な民衆は、教会や神父、信者を襲い、暴力的に解決しようとすることもあった。
仇教事件の頻発は、一般民衆の中に、列強国及びキリスト教への反感を醸成し、外国人に平身低頭せざるを得ない官僚・郷紳への失望感を拡大させたのだ。
乱の主体となった義和団は山東省で発生した。
山東省には元々『大刀会』という武術組織があった。この会は盗賊を捕まえて役所に突き出すなど、郷土防衛や治安維持を担った自警団的性格をもっていた。やがて優越した資本と特権を用いて土地を地上げするカトリック教会神父と民衆との土地争いに介入。
遂に、明治30年(1897年)11月1日、ドイツ人神父を襲撃し、教会の破壊と神父殺害を決行した(曹州教案)。この件でドイツ政府は軍艦を派兵して脅迫、不平等条約(膠澳租界条约)締結を強要し銀20万両と膠州湾,膠済鉄道の権益を得た。
当団体は明治32年(1899年)になると山東省の西北方面に勢力を拡大し、そのころ神拳という一派と融合していった。
また山東の別の地域でも、在地の武術組織と列強国組織が対立する事件が発生した。例によって、教会建設を理由とする土地収奪に対する裁判で、列強国政府の圧力を背景に不利な判決を言い渡された民衆が、梅花拳という拳法の流派に助けを求めたのがきっかけだった。
梅花拳はその流派を3,000人ほど集め、明治30年(1897年)に教会を襲撃した。その後、歴史ある梅花拳全体に累が及ぶのを避けるため、「義和拳」と改名した。これは抵抗を核に梅花拳以外の人々も多く参加し始めた状況に対応する意味もあった。反帝国主義運動が広がりを見せる中で、各地のグループが次第に統合していき、義和拳となったのである。
山東省から押し出された義和団は直隷省(現在の河北省と北京)へと展開し、北京と天津のあいだの地帯は義和団で溢れかえる事態となった。直隷省は山東省以上に、失業者や天災難民が多くおりそれらを吸収することによって義和団は急速に膨張した。そして外国人や中国人キリスト教信者はもとより、舶来物を扱う商店、果ては鉄道・電線にいたるまで攻撃対象とし、次々と襲っていった。そのため北京と天津の間は寸断されたのも同然となったのだよ。
列強を苦々しく思っていた点は西太后以下も同じであり、義和団への対処に手心を加えることとなった。その当時、北京には、20万もの義和団がいたらしい。
明治33年(1900年)6月10日に、20万人の義和団が北京に入城、甘粛省から呼ばれて北京を警護していた董福祥の配下の兵士に日本公使館書記官の杉山彬が殺害され、さらに、6月20日にはドイツ公使クレメンス・フォン・ケーテラー(Clemens von Ketteler)が清国軍の神機営に殺害された。
6月初旬にはイギリス海軍中将シーモア率いる連合軍約2,000名が北京を目指したが、義和団によって破壊された京津鉄道(北京-天津間)を修繕しながらの進軍だったために、その歩みは遅く、また廊坊という地では義和団及び清朝正規兵、董福祥の甘軍によって阻まれ、天津への退却を余儀なくされてしまった。
6月17日、天津にある大沽砲台の攻撃について、清朝は「無礼横行」と非難し、清朝の列強国に対する「宣戦布告」となった。
この決定は、義和団及び列強連合軍に対してどの様に対処するかを西太后は、4度御前会議が開き決定されたそうだ。
ロシアが義和団の乱に便乗し、大軍勢を満洲に派遣した情勢に対し、ロシアの権益拡大を怖れるイギリス首相のソールズベリー卿は、日本に対して6月23日、7月5日、7月14日と再三にわたって出兵を要請した。
また、2回目と3回目の出兵要請の際には、財政援助も申し入れている。
7月5日の要請は特に、ソールズベリー侯が列国を代表するかたちでおこない、なおかつ、出兵可能な国は日本だけであり、反対する国は無いと明言した。
第2次山縣内閣はこの要請を受けて明治33年(1900年)7月6日に増派を決め、7月18日に大沽に上陸し、7月21日は天津に達した。
日本軍は陸軍大臣桂太郎の命の下、第五師団(およそ8,000名)を派兵し、その指揮は福島安正に委ねられた。彼は英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語・中国語に堪能で、当時ロシアや清朝を調査する旅行から帰国したばかりであったが、その経験を買われて指揮官に据えられたのである。
8月14日、連合軍は北京攻略を開始し、翌日陥落させた。
占領直後から連合軍による略奪が開始され、紫禁城の秘宝などはこれがきっかけで中国外に多く流出するようになった。連合軍の暴挙によって王侯貴族の邸宅や頤和園などの文化遺産が掠奪・放火・破壊の対象となり、奪った宝物を換金するための泥棒市が立つほどであった。
また清朝や義和団によって殺害された人々は宣教師や神父など教会関係者が241名(カトリック53人+プロテスタント188人)といわれている。これが、義和団事件だよ。」と賀田が話し終わると森が「戦争って嫌だよなあ。人間同士が殺し合って、一体何が楽しいのだろう。殺すのも、殺されるのも嫌だ。結局は、人間の欲が戦争の引き金になる。強欲はダメですよね。そう思いませんか?」と涙を浮かべながら菊地の方を見た。賀田組若手従業員の中では最年長の菊地は隣に座っている森からその様に言われ「確かに、戦争は嫌だ。大人の勝手な強欲のために、罪もない子供や母や祖母、祖父達が犠牲になる。嫌だよあ・・・・。」と言った。
【参考資料】
飯塚一幸『日本近代の歴史3 日清・日露戦争と帝国日本』
佐々木隆『日本の歴史21 明治人の力量』
鈴木良「5 東アジアにおける帝国主義 五 日清・日露戦争」『岩波講座 世界の歴史22 帝国主義時代I』
参謀本部
編 『明治三十三年清国事変戦史』 1904年
中国史学会編 『義和団-中国近代史資料叢刊』
菅原佐賀衛 『北清事変史要』
牧田英二・加藤千代編訳 『義和団民話集』
佐藤公彦 『義和団の起源とその運動』
エシェリック
張俊義等訳 『義和団運動的起源』
G.N.スタイガー 著、藤岡喜久男 訳 『義和団―中国とヨーロッパ』
小林一美 『義和団戦争と明治国家』
三石善吉 『中国、1900年―義和団運動の光芒』
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