台湾近代化のポラリス 台湾特別事業公債法2 後藤の手腕
「台湾事業公債法に基づく特別事業は、当初の計画を上回る速さで実行されていったのだが、この時に中国本土で義和団事件が勃発したのだよ。この義和団事件によって、予想以上の臨時支出があり、松田大蔵大臣による健全財政主義によって安定していた財政状況が一気に悪化していったのだ。結局、明治34年(1901年)には、多くの公債による事業は中止または延期されることになった。さらに、桂内閣においては、日英同盟締結により、海軍の拡張が必要と判断、増税によってその財源を捻出しようとしたが議会で否決されたのを受けて、公債事業を先送りにし、行財政整理と外債募集によって海軍の拡張を行った。
この様な背景から、台湾特別事業第二期計画の、10か年継続経費も不認可となった。これは明治36年度予算に対する台湾総督府側の目算を大きく狂わせたのだよ。
ただここで注目すべきことは、台湾特別事業計画が予想以上の速さで進められていた事だ。第一期計画を遂行し、既に、第二期計画も始めっていた。すなわち、政府側の行財政整理徹底策の一環として台湾特別事業計画予算も削減されたのだが、その時点で、既に、第二期事業計画は遂行されていたので、当初の予算710万円が400万円に削減されても(第十六議会にて決定)、その400万円には第一期事業計画分の250万円と第二期事業計画分の150万円は含まれていた。これは特例的処置とも言えるだろう。何故、この様な特例が認められたのか。そこには、後藤長官の根回しがあったのだよ。後藤長官は、政府に対し、台湾特別事業の遂行、特に、鉄道整備と港湾整備は軍事的にも必要不可欠であると訴えていたのだ。
先にも述べたように、義和団事件以降、政府も陸海軍も台湾総督府側も、列強国による中国分割が進むとみており、日本側としては福建省をはじめてとする南清地方に進出を考えており、その戦略的重要拠点として台湾を位置付けていた。さらには、台湾海峡付近は、日本本土にとって戦略的防衛線であると考えていた。後藤長官はそこに着目し、政府側に事前に手を打っていた。
さらに、日英同盟締結により、日本とロシアの関係に緊張感が高まった。有事の際に、ロシア東航艦隊による台湾攻撃が危惧されるようになり、台湾防衛を万全なものにするためにも、台湾特別事業はじゅうようであるという認識が政府内にも高まっていた。
これにより、政府側は台湾特別事業予算の年割額繰り上げをも上人することになった。
後藤長官の本心は、台湾特別事業の本来の目的は台湾産業の発展ではあったが、その目的を達成するための政府との駆け引きに、軍事的台湾の位置づけを上手く利用されたのだ。実に見事な手法だよ。」
と、賀田金三郎は、いつもの様に、後藤新平の偉業を我がことの様に誇らしげに語った。その様子を見ていた賀田組若手従業員の中で最年少の森は、「社長は本当に後藤長官を尊敬されているのですね。」と言った。賀田は、「そうだよ。私の人生において、幾人かの尊敬するお方、恩義を受けたお方がいられるが、後藤長官は、その両方にあたるお方だ。だからこそ、君たちにも後藤長官、いや、後藤閣下をしっかりと認識しておいて欲しいのだよ。」と言った。
すると、森は「社長、一つ質問があるのですが、今のお話で出てきた義和団事件って何ですか?」と尋ねた。賀田は少し驚いた様子で「義和団事件を知らないのかね。そうかあ、君たちの年代だと義和団事件の事を詳しく知っている人はいないかも知れないなあ。わかった。では少し、義和団事件についてお話をしよう。その前にちょっと。」と言って賀田は席を立った。森は「社長、どうしたのですか」と目を丸くして驚いたように言うと賀田は「お茶を飲み過ぎた様だ。」と言いながら1階へと下りて行った。その様子が滑稽で全員が大笑いしながら、賀田の後ろ姿を見送った。
【参考文献】
憲政本党編 第十六議会報告書 明35.3 国立国会図書館
小林道彦 後藤新平と植民地経営 日本植民地政策の形成と国内政治
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