台湾近代化のポラリス 台湾事業公債法1 生みの苦しみ
暮れゆく台北の街を眺めながら「台北の街も私が来た頃に比べて随分と変わったものだ。匪賊や土匪達によって荒され荒廃していた台北の街が未だはこんなに賑わい、人通りも増え、こうやって室内から眺めていても活気が伝わってくるほどになった。これも全て、後藤新平閣下が台湾総督府の民政長官として手腕を振るわれた結果だ。」と賀田金三郎は、後藤との思い出に浸っていると「社長!社長!」と賀田を呼ぶ声がした。賀田が振り向くと、そこには、賀田組若手従業員達が心配そうに賀田を見つめていた。その中の一人、最年長で、若手従業員達からは兄貴的存在として慕われている菊地が賀田を呼んでいた。
振り返った賀田を見て「社長、大丈夫ですか?」と菊地が心配そうに尋ねた。賀田は「いやー、すまなかった。後藤長官との思い出に浸っていた。すまん、すまん。」と賀田自身、少し気恥しい思いで笑みを浮かべながら返答した。そして、「話の続きをしよう」と言って、窓際に置かれた椅子に座り直した。
「台湾事業公債法について詳しく話をしたいと思う。」と賀田が言うと、最年少の森が「何だか難しいそうだなあ。俺にわかるかなあ・・・。」とつぶやいた。賀田は「大丈夫だ。森君にもわかりやすいように話をしていくよ。」と言って森の方を見ると嬉しそうな顔をした森が、最前列で、菊地の横に座っていた。
「台湾事業公債法は明治32年(1899年)3月に成立したのだが、この法律を作った理由は、後藤長官が、台湾の鉄道、港湾、道路等々の整備を行うための資金を集める事が目的だった。
後藤長官の台湾事業公債の構想のひな形となったのが、渡辺国武大臣の戦後経営計画だった。この戦後経営計画とは、政府は償金(賠償金)または公債財源によって鉄道や湾岸整備等々の事業をすすめていくという計画の事を言う。
後藤長官が台湾総督府に着任された当時、内地の政府は与党も野党も台湾における鉄道事業は必要不可欠な事業であるが、現状の民間企業任せでは、いつまで経っても完成しないと言う点で、後藤長官のお考えと一致していたため、交際を財源とすることに異論は出なかった。
後藤長官は、台湾における鉄道、湾岸整備等々の事業費として6,000万円(現在の貨幣価値に換算すると約2億3,000万円)の事業公債計画を大隈内閣に提出された。この公債事業計画は、6,000万円の公債を20年計画で順次募集を行い、その財源を基に、鉄道建設、湾岸整備、土地整理等の言わば特別事業として位置づけられるものを実施し、償還財源は全て台湾歳入によって行うというものだった。
後藤長官はこの計画を内地政府に承認させるために、明治32年(1898年)10月に東京へ行かれ、大隈首相や松田正久大蔵大臣と直接お会いになり根回しをされた。これでほぼ決定かと思われたのだが、大隈内閣が総辞職となり、次の内閣である第二次山縣内閣との折衝を一から始める事になったのだ。
しかし、戦後不況が深刻化し、経済界から救済を求める声が強まっていたため、新規公債の発行は難しいと判断され、明治33年1月からの山縣内閣との折衝は思う様に進まなかった。
何せ、その当時の内地は、地租税増税もやむなしというほど財政がひっ迫していた。その様な状況の中で、例え、全てを台湾の歳入で償還を行うとは言っても、それまでの台湾の放漫な財政運営を考えると、6,000万円という巨額な特別事業費を支出する事は難しいというのが、内地側の見解だった。
普通ならばこの時点で諦めるものが多いのだが、後藤長官は諦めなかった。まず、台湾総督府の20か年財政計画書を作成された。この計画書では、総督府の財政整理(人員整理も含む)と明治43年(1910年)度からの政府から台湾に対する補充金の全廃を公約とされた。これにより山縣内閣は、台湾事業公債法を承認するに至ったのだよ。
但し、起債総額は後藤長官の求められた金額より減額され、3,500万円となった。(憲政党側からの反対があったため)」と賀田が言い終えると森が「流石、後藤長官だなあ。人間何事も諦めてはいけない。しっかりとした信念、基本方針を持っていれば、予想外の事態が起こっても、諦めずに対処できる。」と腕組みをしながら力説した。これを聞いた菊地は「そうだよなあ。森もしっかりとした信念と基本方針を持って、賀田組従業員として頑張ってもらわないとな。森の賀田組従業員としての信念は何だ?」と尋ねると森は「人は生まれて来たからには死ぬまでお国のために働く義務がある。台湾で得た利益は台湾に還元する。」と即答した。これを聞いた全員が「それって、社長がいつもおっしゃっている事じゃないか。」と笑った。
賀田は「森君、よく覚えていたね。」と森の頭を撫で繰り回した。
そして、賀田は「後藤長官の手腕で制定した台湾事業公債法だが、制定後まもなく、またまた予想もしていなかった事態が発生したのだよ。」と話を続けた。
賀田が言う「予想もしていなかった事態」とは何か。そして、その事態を後藤新平はどの様に乗り越えていくのか・・・・・・・・。つづく
【参考文献】
台湾総督府民生部土木局編 基隆築港概要 1912年
高橋泰隆 台湾鉄道の成立
森本駿 台湾を自由貿易市場とする議 自由党報 1889年
森本駿 台湾の二大事業 自由党報 1895年
早稲田大学大隈研究室編 台湾起業公債条例案附票
国立国会図書館 台湾事業公債法
小林道彦 後藤新平と植民地経営 日本植民政策の形成と国内政治
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