台湾近代化のポラリス 台湾統治救急案誕生の裏側
今日も、台北にある賀田組の2階では、大勢の賀田組若手従業員達が集まり、社長である賀田金三郎の話を聴くことを楽しみに待っていた。
そこに現れた賀田。最前列には、若手従業員の中で最年長の菊地と最年少の森が並んで座っていた。菊地は彼らの兄貴的存在で、森は彼らのマスコット的存在だった。この対照的な二人が並んで座っている光景を目にした賀田は、「今日は、賀田組の注目株2人が仲良く並んで座っているんだね。」と笑った。すると菊地は「社長、違いますよ。私は森の監視役です。余計な事を言わない様に監視しています。」と言うと森は少しムッとした様子で「僕はいつでも真面目に社長のお話を聴いています」と言って周りを笑わせた。
賀田はその様子を微笑ましく思いながらゆっくりと話を始めた。
「ここまで後藤新平民政長官が台湾にご就任されて、台湾を近代化の道に向かわせるために取り組まれた事を話してきたが、一見、平穏無事にすべての計画が進んだ様に思えるが、実は、全ての案件に関わる、財政という面では非常にご苦労されたのだよ。
明治29年(1896年)4月に「台湾総督府条例」「拓殖務省官制」「台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律(六三法)」が施行されて、台湾統治に関する方向性は固まったと思われていた。確かに一見、これらの法令によって台湾は本国から自立し、総督に対してもある程度の自由裁量権が与えられた様に思われる。しかしだ、大きな問題点があった。それは、拓殖務省の存在だった。拓殖務省の大臣は、総督に対し指揮、監督をする権限が与えられていた。これすなわち、台湾統治に関して、総督の諸権限が制限され、統治に関する本国政府の介入が続くと言う結果を生み出したのだよ。
拓殖務省は事前に台湾総督府との話し合いもなく、一方的に台湾の重要施策を決定することもよくあり、その結果、拓殖務省と台湾総督府の間には常に対立があり、なかなか総督府の思い通りに統治政策は進まなかった。
最終的には、本国は明治30年(1897年)9月に廃止され、台湾総督府は、内閣に設けられた台湾事務局の管轄下におかれることになったのだよ。
そして、同年11月に「台湾総督府官制」によって総督武官制の存続が最終確認された。」ここまで賀田が話すと、最前列に座っていた森が「社長、武官制って何ですか」と質問してきた。賀田は、「武官制とは、陸軍・海軍は,現役の大将・中将から各大臣、総督を任用するとした制度のことだよ。
この制度のポイントこの制度により,軍部は自分たちの意見が内閣に受け入れられない場合に,軍部大臣を辞めさせたり,後任を出さなかったりすることで,内閣を総辞職に追い込むことができるということになるからね。」と説明すると森は「なるほど」と大きくうなずいた。
賀田は話を続けた。「拓殖務省は廃止となったが次の問題として浮上するのが、財政面での問題だ。日本にとっては初めての統治地となった台湾。統治に必要な経費がどの程度かかるかは手探り状態が続いていた。日本が台湾を統治した年の明治28年(1895年)、台湾関係費の総額は、2,789円(現在の貨幣価値に換算すると約1億600万円)で、本国の一般会計歳出総額の約33%にも及んでいた。
翌年は少し減少したが、それでもまだ、一般会計歳出総額の約11%もあった。
これは本国にとっては非常に負担が大きいもので、何とかこの負担を軽減したいと言う事で明治29年(1896年)3月に、『台湾総督府特別会計法』が制定された。
この法律は、台湾総督府に租税徴収の責任を負わせ、台湾における税収を増やす。そして、将来的には台湾財政の独立を目指すというものだった。また、台湾関係の軍事費も従来は特別会計から歳出されていたが、一般会計の陸海軍省所轄に属する様になったのだよ。
しかしここでまたまた大きな問題が生じた。それは、本国の制度をそのまま台湾に委嘱したという点だ。台湾の実情は土匪が勢力を伸ばし、混乱続きの状態。そこに日本国内の制度をそのまま採用したのだから、その混乱はさらに激しくなった。特に、地方では収拾がつかない状態にまで発展してしまったのだよ。」と言った。すると森が「だから、乃木総督の台湾をフランスに売却発言があったのですね」と言うと、菊地は慌てて森の口を押え「余計な事を言うな」と森の発言を制止した。
賀田は笑いながら、「森君、なかなか鋭い意見だね。」と言うと、森は菊地の手を払いのけ、「ほら、社長だってお認めになったじゃないか。」と菊地を睨んだ。
「本国の負担が増える一方の状況の中で、当初は台湾に対する補充金、すなわち『台湾経費補足』を続けていたが、遂に、自由党から補充金削減を訴える声が出始め、最初は渋っていた進歩党も、補充金削減に傾き始めたのだ。
第三次伊藤内閣の時代、補充金の半減案が総督府に提起された。当時600万円あった補充金が一気に300万円に減らすと言う案に対し総督府側は猛反発した。まあ、これが乃木総督退陣の大きな引き金になったとも言えるだろう。
後藤長官が台湾に着任された時点で、補充金半減は決まっていたのだが、後藤長官は、補充金の大幅削減は、台湾民衆のさらなる反発を招き、その結果、土匪の活動を活発化させることに繋がる事を懸念された。土匪の活動が活発になれば、最終的にはさらなる台湾関係費の膨張が予想されたからだ。
そこで後藤長官は最初に「台湾統治救急案」を提出された。これは今までも何度も話してきた旧慣制度調査を行い、旧慣を組み込んだ政策を打ち出されたのだよ。
そもそも後藤長官は、統治した台湾に対して、積極的に資金を投じるべきで、その結果、鉄道、港湾、道路、上下水道等々を整備することが、台湾産業の発展に繋がり、台湾産業が発展すれば、全ての面において本国が望む台湾自立を果たせるとお考えだった。
だから、鉄道、湾岸、道路等々の整備費用は公債を外債として募集すべきと称えておられる。何故ならば、全ての事業が軌道にのった時には、外債を台湾の負担のみで償還出来るし、台湾歳入を倍増させて財政状態を飛躍的に好転出来るとお考えだった。」と賀田が説明すると菊地が「それが、保甲条例制定と繋がったのですね」と言うと、賀田は「菊地君、正にその通りだよ。それまで六県三庁と辦務署から成り立っていた地方制度を三県四庁に改め、行政の簡素化、効率化を図られた。
これにより、総督府組織も改革され、1,080人もの官史が罷免された。
さらに、明治31年(1898年)には『地方税規則』を制定され、一県の経費はその県の税制で賄う事を原則とするとされた。こにより、各県はそれまでおろそかになっていた徴税を積極的に行う様になった。
これによって明治29年(1896年)度の台湾関係費国庫負担額が一般会計歳出総額の約11%にあたる約1,814万円だったのものが、明治32年(1899年)度は約5%の約1,212万円に、明治34年(1901年)度は約4%の約1,019万円に、そして遂に明治38年(1905年)度には、国庫補充金は全廃された。
後藤長官が台湾総督府民政長官としてご着任されていなければ、果たして今の台湾があったのかと考えると、如何に、後藤長官がこの台湾の発展に大きく関わっておられたかがよくわかると思う。
さあ、今日はこの辺で一旦終わりにしよう。次は、先ほども申した、公債を外債にという部分をもう少し詳しく説明したいと思う。」と賀田が話を切り上げようとすると全員が「えー、もう終わりですか」と口々に不服そうに声をあげた。賀田は「おいおい、私はまだ飯を食っておらんのだよ。今日は、昼間も忙しく、昼食を食べ損じた。もう腹ペコで仕方ないのだよ。」と苦笑いをしながら言うと森が「ミチ奥様の料理、本当に美味しいですよね!」と大声で言った。すると今度は全員が「美味しい」と声をあげた。
賀田は「わかった、わかった。ではこれから私の家に行き、全員で飯を食おう」と言うとそれまでまだまだ賀田の話を聴きたそうにしていた若者達が我先にと1階に下り、玄関先で「社長、早く!」と叫んでいた。
【参考文献】
東京日日新聞 1897年7月11日
大久保鉄作 台政今後の方針 進歩党党報7
第13議会報告書 台湾協会会報第40号
第10回帝国議会 衆議院台湾総督府特別会計法案審査特別委員会速記記録
峡謙斎 台湾財政談 台湾協会会報第28号
明治財政史編 明治財政史
室山義正 近代日本の軍事と財政
後藤新平文書 水沢市立後藤新平記念館編
小林道彦 後藤新平と植民地経営 日本植民地政策の形成と国内政治
コメント
コメントを投稿