台湾近代化のポラリス 台湾協会の働き 第五回内国勧業博覧会4
台北市書院街にある賀田組本店2階の広間には、今日も、賀田金三郎の台湾統治初期の話を聴きたいと集まった、賀田組若手従業員達でいっぱいだった。
第五回内国勧業博覧会についての話を続けている賀田は、「ではここで少し休憩時間としよう」と言った。そして賀田は大好きなタバコを一服吹かしながら、窓の外を見た。当時の台北市は今の様に高いビルもなく、空が広く見えた。
夕焼けで真っ赤に染まった空を見ながら賀田は後藤新平との話を思い出していた。
賀田は「閣下のお考えが政府に届かず、誠に遺憾ではございますが、閣下のご意向を理解し、これからの台湾統治政策を円滑に進めるために、台湾協会、台湾協賛会共々、如何なる協力も惜しまない覚悟でございます。」と返答した。
後藤はその言葉を聞き、それまでの苦虫を潰したような顔が消え、少しニンマリとした顔で言った。「台湾統治政策を円滑に進める上でも、第五回勧業博における内地観光及び台湾館出展事業は、必ず成功させる必要がある。確かに内地観光事業は、以前から総督府と台湾協会が連携して進めていた事業の一環だ*1。明治32年(1899年)8月に台湾協会台湾支部の第一次総会時点から『本島内へ視察員を派遣する事』、『内地観光者の旅費を補助する事』を事業計画に組み込んでいる。さらに、日本から台湾を訪れる視察者には台湾支部が、台湾から日本を訪れる旅行者や留学生には日本の各支部が、それぞれ現地での宿泊手配・見学斡旋などを行うと連携体制も出来ている。
これに加え、今回は、総督府による渡航費割引措置が実施された。但し、割引対象者は、台湾島民の内地観光者、日本人の台湾視察者、台湾で布教活動を行なう宗教家に限定した。これらの対象者はいずれも社会的地位の高い、もしくは社会的影響力の大きい人物だ。」と言うと賀田は「彼らが見聞きしたことを伝播してもらえば、信頼性も高く、日台双方の意識改革にも繋がります。日本産業の進歩を見せることで台湾漢族を殖産興業に駆り立てると同時に、文明国・日本への心服心を植え付ける事が出来ます。また、台湾社会の現状を日本国内に伝えることで旧来の台湾は未開で野蛮という間違った印象を改善し、本国から植民地経営にとって必要な人材と資本を誘致する事が出来ます。」と返答した。
後藤は「そうなのだよ賀田君。台湾統治政策を円滑に進め、台湾の治安、環境、交通等々を一日も早く安定させ、近代化を図れと政府は常に我々総督府側に圧力をかけてくるにも関わらず、いざと言う時に2万円だよ。どう思う。2万円だぞ。」と再び顔を赤らめてぼやき始めた後藤であった。
賀田は後藤に対し「閣下、先日、台湾協会側と話をしたのですが、台湾協会側も『台湾館建設案の中止は遺憾である』と申しておりました。既に、閣下の方にも対右腕協会側から提案がなされているかと思いますが、まず、篤慶堂の移築費用の一部を台湾協会側が負担する事になっております。篤慶堂を移築すれば、台湾館の規模に準ずる事が出来るかと。さらに、そこを陳列室として利用すれば、台湾を知らない人々に台湾家屋の建築を知らしめ、台湾の出品をその家屋内に陳列する事で他の出品陳列場と独立させることが出来ます。当初、農商務省が求めてきた『台湾館建築の主意』にも応えるごとができます。」と言うと「台湾協会からの提案を受けて、総督府の博覧会委員や台湾課長を日本へ派遣し、台湾協会会長の桂太郎氏や開催地の大阪支部役員と調整を重ね、さらに博覧会事務局と粘り強く用地交渉を行なった結果、ようやく博覧会事務局・総督府・台湾協会の費用分担によって篤慶堂を移築するという決定に至ったよ。」とやや興奮が冷めてきた後藤は、お茶を一口飲んだ後答えた。
売店には台湾を代表すべき異様の趣向をこらし、陳列ケースも内地と其様式を異にした。さらに各施設のスタッフには台湾人で日本語に習熟したもの雇った。これは『日本化する台湾(人)』を内地人に印象付けるためのものだった。
さらに、台湾協会は、会員から特別の専門委員を選んで台湾・大阪支部間の連絡体制を強化し、台湾語による観光案内書の作成・配布や、台湾人専用の宿泊施設「台湾会館」の開設など、台湾人観覧客の受け入れ態勢を整えた。また日本郵船や大阪商船、日本国内の鉄道会社と交渉し、台湾人観覧者への運賃割引措置を実現すると、観覧客を増やすために大量の割引券を島内に配布した。さらに博覧会開催にあわせて『台湾協会会報』の漢文欄に「観光引路」と題する日本の観光情報を順次掲載し、内地観光の機運を盛り上げていった。
*1 明治29 年2 月17 日、第一期芝山巌学堂の卒業生葉寿松と張柏堂は樺山台湾総督に連れられ内地見学をしている。それ以前、学務部長伊沢修二に随って何秋潔、朱俊英及び盲目の生徒二名がすでに内地へ行っており、これは台湾人の内地観光の先駆けであった。そして明治29 年4 月1 日、台湾人知識人李春生の孫李延齢、李延禧など七名が臨時傭として日給を支給される形で東京に留学した。総督府の支援の下で派遣されたこれらの留学生は支配者の文明の進歩、発達を台湾島内の大衆に宣伝する役目を担わされてもいた。(陳培豊 『「同化」の同床異夢』)
農商務省編 『第五回内国勧業博覧会事務報告』
【参考文献】
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台日報 『博覧会出品委員会に嘱す』明治35 年4 月10 日
協会報 44 号、58 号
井上熊次郎(編) 『第五回内国勧業博覧会案内記』
上野道之助 『第五回内国勧業博覧会の利用』 台湾協会会報40 号
台日報 『第五回博覧会と総督府め準備』明治35 年1月15 日
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台日報 『台湾館設置と台湾協会』明治35 年6 月15日
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台日報 『台湾館』45 号
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協会報 『台湾館の工事』50 号
協会報 『台湾館及び台湾会館』53 号
協会報 『第五次総会』58 号
協会報 『第六次総会』 68 号
台日報 『台湾園遊地設置の計画』明治35 年5 月8 日
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台日報 『台湾館設置と台湾協会』明治35年6 月15 日
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台日報 『博覧会に対する諸計画』明治35 年8 月7 日
台日報 『第五回博覧会彙報(承前)』明治35 年12 月4 日
台日報 『博覧会と新竹の四阿亭』明治35 年12 月30 日
台日報 『博覧会台湾館看守人の出発』明治36 年2 月25 日
台日報 『博覧会と台湾館』明治36 年3 月1 日
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台日報 『博覧会雑感(八日発)』明治36 年3 月15 日
協会報 『台湾支部第四回総会』44号
協会報 『第五回内国博覧会と当協会』44 号
協会報 『第四回総会』45 号
協会報 『台湾館設置の確定』49 号
協会報 『第五回内国勧業博覧会彙報」54 号
協会報 『第五次総会』58号
台日報 『台湾協会の活動』明治35 年4 月19日
台日報 『台湾協会と博覧会」明治35 年5 月8 日
台日報 『台湾協会と博覧会」明治35 年5 月11 日
台日報 『本島人乗船乗車賃の割引』明治36 年1 月25 日
台日報 『台湾協会発行の割引切符」明治36 年2 月4 日
台日報 『台湾協会博覧会の準備」明治36 年2 月21 日
台日報 『博覧会と台湾館」明治36 年3 月1 日
台日報 『台湾会館の図』明治36 年3 月8 日を参照。
農商務省編 『第五回内国勧業博覧会事務報告』
松下迪生 『日本統治期台湾の顕彰空間の形成に関する研究
(要約)』京都工芸繊維大学大学院工芸科学研究科造形科学専攻博士学位論文 2014 年 9 月
阿部純一郎 博覧会における「帝国の緊張」 第五回内国勧業博覧会(1903)における内地観光事業と台湾館出展事業 文化情報学部紀要,第11 巻,2011 年
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