台湾近代化のポラリス 台湾協会 第五回内国勧業博覧会3

後藤新平の台湾統治政策の中で、後藤自身が最も頭を痛めたのが、内地人の台湾に対する誤解、すなわち、正しく台湾の現状を認識していない内地人の見解を改めるにはどうするべきかと言う点であった。そこに政府より誘致のあった第五回内国勧業博覧会への台湾館としての参加であった。しかし、政府から誘致があったにも関わらず、与えられた予算はわずか2万円であった。

後藤は自分の意図を組み、第五回内国勧業博覧会への参加実現を果たすための方法として、台湾協会との連携であった。さらに、賀田金三郎が中心となって立ち上げた台湾協賛会の協力であった。

 賀田は集まった賀田組若手従業員達を前に話を続けた。「ここで、台湾協会について少し話をすることにしよう。明治31年(1898年)4月に、桂太郎総督を会長とし、水野遵民生局長を幹事長とする台湾協会が設立された。台湾協会設立の目的は、日本と台湾の人的交流や情報交換を促し、台湾総督府の台湾の統治経営を民間の立場からか支援、協力するということだった。その他の会員には伊渾修二、岩崎禰之助、大倉喜八郎、金子堅太郎、河合弘民、阪屋芳郎、渋沢栄一、高橋是清、田口卯吉、益田孝、横山孫一郎など、台湾での官職経験のある人物や、当時を代表する政財界人・有識者が多く参加した。

実は、台湾協会設立の話が出た際、水野局長から私の方に話があった。その内容は、「ヨーロッパの場合は、本国にあらかじめ「国民に対する準備、即ち、社交的協会」が組織されるのが通例で、そうした民間レベルの実情認識や布教活動、さらには経済的交流といったものがあるからこそ、政府による公式の統治も円滑にすすむ。それに比べて日本の台湾支配は、殆ど武力を以て取った様なもので、平和の成就ではなく、ヨーロッパなどの先進国が植民地を得たのとは、順序が違っている。それゆえ、この準備不足を補うべく協会の設立が急務だ。」というもので、会員集めの協力要請があった。私はまず、大倉喜八郎氏に相談をし、協力要請をした。大倉氏も団体立ち上げの必要性をご理解くださり、各方面にお声をかけてくださったのだよ。

この水野局長のお考えは、正に、後藤長官の問題認識と類似している。台湾協会とは、後藤長官が日本に欠けている民間レベルでの情報収集や相互交流を活性化するための団体だった。

台湾協会の事業内容は次の様なものがあった。(台湾協会規約(第2 条))

①台湾の真相を開発する事、附視察員の派遣

②台湾の産業品及び台湾人民の嗜好に適する本邦商品を蒐集する事

③台湾に移住し又台湾より上遊する者の為めに及ぶ限り便利を与ふる事

④台湾に関する実情上の調査、紹介等の依頼に応ずる事

⑤彼我言語練習の便を図る事           

⑥台湾会館を設置する事

⑦会報

⑧講談会

⑨台湾留学生を監督補助する事

⑩台湾に関する左の書籍の蒐集(但海外各植民地に関するものをも集む)

1 )通信、2 )新聞、3 )雑誌、4 )著述、5)旧記

 台湾協会の重要な柱は、日台相互の実情認識のための調査研究や情報交換で、これが視察員の派遣や関連資料の収集、会報(『台湾協会会報』)や講演会による報告発表だった。また、経済的交流では、日台間でお互いの嗜好にあった産品を紹介し合う、例えば、陳列所の設置などによって、台湾で事業を起こそうとする者には実情上の調査・照会に応じることが出来るそれである。

さらには、日台間のさまざまな人の移動も必要なのだ。森君が言った『百聞は一見に如かず』を実施するために、移住者・視察者・観光客を対象に、台湾島民の日本旅行者に対しては「台湾会館」という専用の宿泊施設や集会所のほか、物産陳列所や図書館なども設けた。

また、台湾人留学生に対しては、監督・学資援助や日本語・台湾語の教育支援などを行い、日台間で働く人材育成を担った。その具体的な事例として、明治339月に開校した台湾協会学校(現・拓殖大学の前身)だった。この学校が設立された目的は、台湾協会学校規則第1 条に記載されている様に、『台湾及南清地方に於て公私の業務に従事するに必要なる学術を授くる』であり、特に「台湾語」の学習に重点を置き、卒業生は総督府の下級官吏や通訳として活動している。
君たちも知っている様に、漢人は北京語という中国語を使うが、台湾語とは全く違う。台湾語は福建語が語源とも言われ、文字がなく、音(発音)しかない。中国語は4つの音声だが台湾語は8つの音声に分かれる。音声が違えば、全く意味が違う言葉になる。そのため、台湾語の学習は非常に重要だったのだよ。

 今までに何度も話してきたが、当時は台湾総督府では優秀な人材が極端に不足していた。当然、台湾語話者は少なかった。水野局長も「台湾に参って居るものは何か罪人か流罪にても遇うたような観念を起す、それは全く台湾の真相が内地に知れて居らぬから、遂に内地の諸君の同情を買うことが出来ないからである」とおっしゃっていた。また台湾協会会頭の大隈重信氏は、台湾統治経営の成否を左右する大原因を『国民の熱度如何』に求め、たとえば英国のインド支配に比べてフランスのアルジェリア支配が失敗しているのは、『政府は熱心に殖民をやるけれども、国民は甚だ冷淡である』こと、『殖民地には多少無頼の徒は行くか知らぬが、紳士と云ふものは少も行かない』ことにあると主張された。そのうえで、『日本国民も東京、大阪に居って、台湾に往かないと云ふ感じが往々ある』ともおっしゃった。

さらに台湾協会学校幹事の河合弘民氏は、『我内地人士の台湾を視ること動もすれば殊方異域の観を以てし自ら進で一生を其裡に投ずるもの甚だ稀』とし、台湾南清で働く人材養成機関としての台湾協会学校の必要性を訴えおられる。

これぞ正に、後藤長官が常に問題視されていた日本国内の台湾=異域という印象を如何に払拭し、定住志向のない無頼の徒上を排し、植民地経営を支える優秀な人材をいかに誘致・育成していくかという問題を解決する道そのものなのだよ。

 台湾協会設立は直ぐに反響を生んだ、創立半年にして会員数は1140 (普通会員1000 名、賛助会員140 )、原資金である寄付は約5 3000 円の巨額に達した。大阪・神戸・京都・名古屋、さらに明治32年(1899年)に、台湾台北に支部が開設された。台湾支部の支部長が、後藤長官だった。

台湾支部が設立すると直ぐに会員数を732名となり、これは、明治32年(1899年)528日に開催された第一次総会時点での台湾支部の会員も含めた総会員数1410名だったので、如何に台湾支部の会員数が多いかがよくわかると思う。また、台湾児玉源太郎総督から毎年500 円の補助金を受けるなど、総督府の後ろ盾をうけ組織を拡大していった。」と言うと森が「台湾支部設立にあたっては、社長も奮闘されたと聞いています。」と言うと賀田は、「そうだね。後藤長官から台湾支部設立のお話があり、会員集めのお手伝いをさせて頂いたよ。」と答えた。

 「第五回内国勧業博覧会参加は、台湾総督府にとっても、台湾協会にとっても、台湾を正しく内地人に理解してもらえる千載一遇のチャンスだった。そのため、総督府と台湾協会が取り組んだ事業が2つある。それが、『内地観光』と『台湾館出展』だ。」と賀田は話を続けた。

水野遵

近代日本人の肖像より

 

【参考文献】

水野遵 『台湾協会の経過に就て』 協会報1

水野遵 『京都支部設立に就て』 協会報8

桂太郎 『台湾協会の設立に就て』 協会報1

台日報 『桂台湾協会会頭の談話』 明治35 3 30

山根幸夫 『台湾協会の成立とその発展』 東京女子大學附属比較文化研究所紀要36

呉宏明 『近代日本の台湾認識』

古屋哲夫編 『近代日本のアジア認識』 京都大学人文科学研究所

大隈重信 『台湾協会の設立に就て所感を述ぶ』 協会報

協会報 『台湾協会学校の設立』22

協会報 『本会の大拡張』7

協会報 『名古屋支部の設立』8

山根幸夫 『台湾協会の設立とその発展』東京女子大學附属比較文化研究所

紀要36

阿部純一郎 博覧会における「帝国の緊張」 第五回内国勧業博覧会(1903)における内地観光事業と台湾館出展事業 文化情報学部紀要,第11 巻,2011 年

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