台湾近代化のポラリス 後藤新平の意図とは違った第五回内国勧業博覧会台湾館2
「しかし、実際には後藤長官の思惑とは違う方向に進んでしまったのだよ。」という賀田金三郎の発言を聞いて、それまで、賀田組若手従業員最年少の森の「百聞一見に如かず」という発言に大笑いしていた従業員達が静まり返った。
賀田はゆっくりと話し始めた。「確かに、台湾館には大勢の観客がやって来た。数字だけをみれば大成功したように思えるが、後藤長官が重要視されたのは、その中身なのだよ。
台湾総督府が意図していたことがきちんと観客に伝わったかということだ。しかし残念なことに、全く違う方向で内地人達に伝わってしまった。
例えば、まず新聞各紙の報道をみると、台湾の農工業品に関する報道は少なく、そのほとんどは台湾風俗人形(安本亀八作)の異様さ、台湾喫茶店や料理店で働く女性従業員の魅力、纏足の物珍しさ、そして台湾建築の物珍さなどが記事として掲載されていた。
また観客も、台湾料理店の女性従業員は美人であるとか、纏足を初めてみたとか、監視員が台湾漢族を先住民と間違えていたりと、台湾社会を深く理解したとは到底思えない状態だった。
その原因として考えられる事はいくつがある。例えば、台湾館の展示方法だよ。単に農工業品を展示しているだけで、その製品に対する説明も不足しており、ただ単に、台湾の物産を陳列しただけの状態だった。
この結果、後藤長官の思惑とは大きくかけ離れ、台湾の「異質」「未開」「野蛮」という誤解された印象をさらに大きくしただけになってしまったのだよ。」と賀田は少し悲しそうな顔をしていった。すると今度は最年長菊地の弟分にあたる青木が「どうしてその様な結果になってしまったのですか。後藤長官のお考えが隅々まで浸透していなかったのですか。」と問いかけてきた。
賀田は「台湾館がこの様な展示方法に行き着までには紆余曲折があったのだよ。つまり、当初の計画通りに台湾館が出来たと言うのではなく、複雑な交渉を経て成立したものだった。
世間では、総督府が台湾館計画に消極的であったとか、台湾漢族が博覧会事業に無関心であったと言う人もいる様だが、そんな単純なことではない問題がそこにあった。」と言うと、青木が「やはりここでもお金が問題だったのでしょうか?」と言うと、賀田は「その通りだよ。」と言って、顔をしかめた。
「台湾館設置が正式に決定したのは明治35 年(1902年)10 月だが(農商務省告示182 号)この決定に行き着くまでにはいくつかの紆余曲折があった。
台湾館計画を妨げた最大の要因は青木君が指摘したように経費の問題だった。第五回勧業博に際して農商務省から「台湾館」という独立した展示館(パビリオン)を建築するよう打診をうけたのが台湾総督府だった。台湾総督府側はこの提案を承諾し、当初、建築費及び出品費として約18 万円を試算したのだが、その後、日本側に対し、様々なルートから情報を入手し、この金額では予算は承認されない可能性が大きいと判断し、結局、明治35 年度予算として帝国議会に請求された額は約7 万円だった。この時点で、一部新聞社などは、『消極的な台湾総督府』と報じている。しかし、最終的には、帝国議会側が出した結論は、『来年度に於ては更に急を要すべき事業があるので、博覧会出品費にのみ多額の経費を投ずる事は出来ない』という理由で却下され、結局2 万円の第五回内国博覧会出品費しか認められなかったのだよ。
当時帝国議会では、衆議院予算委員会において明治35 年度の総督府予算が審議されていて、その結果、総督府の予算は全面的に縮小されることとなり、台湾に住む日本人のなかには事業を縮小したり、本国に引き揚げる者が増加した。
台湾総督府としても、限られた財源を博覧会事業に割くよりは、最優先課題のだ鉄道・港湾整備や土地調査事業に充当するしかなかった。
結局、出品費2 万円は、出品運搬及び委員派遣費調査費参考品買入費等にあてられることになり、台湾館を建築することは不可能となってしまったのだよ。後藤長官が望まれた最初の台湾館計画は経費の点で大きな制約をうけ、中止に追い込まれた。またそれに伴い、台湾産品の一括陳列も難しくなり、一時は、内地の各府県と同じく品目ごとに別館陳列するという案さえ浮上した。
『台湾日日新報』でも、出品費2 万円というのは『極めて消極主義』、『博覧会に対する我が総督府の態度は余りに熱心ならざるか如し』と非難し、こんな微々たる出品費では、日本各府県の出品費には遠く及ばす、不十分な出品にならざるを得ないと問題視された。
博覧会事業をめぐる官民の温度差は、『台湾出品協会』という民間団体の許可申請をめぐる問題にも現れていた。同団体は、民間出品者を支援する目的で、台北茶商公会の大庭永成氏と民間総督などと言われ、総督府政治に隠然たる影響力を有した三好徳三郎氏を中心に企画され、総督府殖産局に許可申請を出すところまで話はすすんでいた。しかし、当時、本件を対応した殖産局長代理の柳本通義氏は、『出品は官管直接に出品者を勧誘して一般の出品事務を取扱うものなれば販売品に向って尽力ありたし』と答え、民間が独自に出品者を勧誘することには消極的な態度を示した。
その一方で、総督府内でも柳本氏を委員長とする博覧会委員会の設置準備が進んでいた。総督府は民政部内に博覧会委員会を設置し(明治35 年3 月4 日、訓令52 号)、政府出品物の選定や、各庁から任命された庁委員を通して独自に民間出品者の勧誘を行なった。
これに対し、『台湾日日新報』は、『それが民間への情報伝達を妨げ、出品準備を遅らせている』という不満が記事として掲載された。」と賀田が言うと、今度は森が「えー、何だか台湾総督府に対する印象が変わったなあ。後藤長官らしくないなあ」と口を尖らせながら不満そうに言った。これに対し賀田は「確かに、一連の流れは総督府が完全にお役所で、官僚らしい発想だと言えるだろう。しかし、後藤長官としては、そもそも内地から台湾館建設の打診があり、それを承諾したという経緯があるにも関わらず、わずか2万円の予算しか出なかったことへの怒りはおありだった。しかし、決定された以上、その予算で何とか進めなければならない。そこに浮上した台湾出品協会が独自に出品者を勧誘するという話。これを認めればどうなると思うかね。彼らは総督府の意向など知る由もない訳だから、好き勝手に出品者を集めるだろう。その結果、総督府側の、いや、もっと言うならば、後藤長官のご意向に沿わない出品者が集まった場合、必ず失敗してしまう。
この第五回内国勧業博覧会での台湾館参加は台湾の未来を決める大きな意味を持っている訳だから、それを十分に理解した上で、出品者を集める必要がある。それは、非常に大きな責任を負うことになる。そこで、後藤長官がお考えになったのが、台湾協会との連携なのだよ。」と言った。
森は「なるほど。確かに社長のおっしゃる通り、当時の台湾の状況を考えると、台湾館の参加は非常に大きな責任を負う事業と言えますね。さすが、後藤長官だ。僕と違って、読みが深い。」と言うと菊地が「当たり前だろう。後藤長官だぞ。森と比べるなんて百年、いや、千年、万年早いわ!」と言って、森の頭を小突いた。森は照れ笑いをし、他の者はその森の姿を見て笑った。
この後、台湾協会、台湾協賛会が後藤新平の目指す台湾館実現のために奮闘する。
民間総督と言われた三好徳三郎(ウィキペディアより)
【参考文献】
台日報 『台湾館の価値』明治36 年4 月24 日。
台日報 『台湾館(一)(四)(五)(六)(七)」明治36 年6 月7 日、明治36 年6 月13 日、明治36 年6 月14 日、明治36 年6 月19日、明治36 年6 月20 日
台日報 『博覧会瞥見記(五)」 明治36 年4 月8 日
台日報 『博覧会出品委員会に嘱す』 明治35 年4 月10 日
台日報 『第五回博覧会と総督府の準備』 明治35 年1月15 日
協会報 『在台内地人の増減と衛生施設』50号
協会報 『第五回博覧会と台湾』40 号
協会報 『台湾と第五回内国勧業博覧会』41 号
協会報 『台湾と第五回内国勧業博覧会』43 号
台日報 『第五回博覧会と総督府の準備』 1902 年1 月15 日
台日報 『第五回博覧会準備と台湾家屋』 1902 年2 月7 0
協会報 『台湾館設置の確定』49 号
台日報 『第五回博覧会出品の来年度予算』明治34 年12 月7 日
台日報 『博覧会出品委員会に嘱す』明治35 年4 月10 日。
台日報 『台湾出品協会設置の計画』明治35 年2 月13 日
台日報 『博覧会出品と売店』明治35 年2 月15 日
台湾日日新報 2 月16 日(「第五 回博覧会準備」)、2月13 日、同15 日である(「台湾出品協会設置の計画」「博覧会出品と売店」)
台日報 『博覧会と販売協会に就て』明治35 年3 月16 日
台日報 『博覧会と庁委員』明治35 年3 月21 日
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