台湾近代化のポラリス 後藤新平の哲学に基づき参加した第五回内国勧業博覧会1

 「社長、第五回内国勧業博覧会ってどんな博覧会だったのですか?」と賀田組若手従業員の中で最年少の森が賀田金三郎に尋ねた。

これに対し賀田は「第五回内国勧業博覧会は明治36年(1903年)31日から731日まで、大阪の今宮で開催された博覧会だよ。この博覧会は、日本が工業所有権の保護に関するパリ条約に加盟したことから海外からの出品が可能となり、14か国18地域が参加し、出品点数31,064点と予想以上の出品が集まった。

(博覧会跡地は日露戦争中に陸軍が使用したのち、1909年(明治42年)に東側の約5万坪が大阪市によって天王寺公園となった。西側の約28千坪は大阪財界出資の大阪土地建物会社に払い下げられ、1912年(明治45年)73日、「大阪の新名所」というふれこみで「新世界」が誕生。通天閣とルナパークが開業した。)

 台湾も、日本の博覧会史上初の植民地パビリオン「台湾館」として参加した。場所は会場正門から遠く離れた裏門(「阿部野門」)付近の一画で、飲食店や興業物などが立ち並ぶ娯楽色の強い区域だった。中国式の外観から、周囲の西洋建築パビリオの中でとりわけ異彩を放っていた。また台湾館は現地社会をありのまま再現した「小台湾」として注目を集めた。

台湾館の最大の特色は、その展示方法で、まず、日本の各府県の出品物が品目別に10 の公式展示館(パビリオン)(農業館・林業館・水産館・工業館・機械館・教育館・美術館・動物館・水族館・通運館) に別館陳列されたのに対し、台湾館は一個の独立した展示館のなかに台湾産品を一括陳列するという独自の方式をとった。

また現地の雰囲気を醸し出すために、展示物にも様々な工夫がこらされた。たとえば正面入口の「紅紫白黄の極彩色」で彩られた楼門と、門前に置かれた「二本の支那風の旗柱と高麗狗」は、いずれも台北庁の門前から運び込まれたものであった。また館内の篤慶堂は、台南に現存し、かつて北白川能久親王率いる近衛師団の幕営にもあてられた所縁の建物(文化12 年創建)で、今回「戦勝唯一の記念物」として「原形のまま」移築され、出品物の陳列室として利用された。

同じく館内の舞楽堂(明治25 年創建)は総督府内に保存されていた「戯台」、四阿亭(「雨傘亭」とも呼ばれる)は新竹の富豪「鄭如蘭」の邸内にあったもので、横手の人口に置かれた「台湾槙門」もまた、元来は総督府官邸裏に設置されていたものである。

さらに台湾館には、こうした現地の建造物以外にも、「内地人の未だ目に触ざりし」花や植物を配した「台湾式」庭園、山羊や水牛などの「奇禽異獣」を飼育した「動物園」、「纏足」姿の女性従業員が台湾の「一大特産」たる烏龍茶をふるまう台湾喫茶店(「和楽境」)や「台湾風」料理を提供する台湾料理店(「仙遊軒」)など、日本とは異なる台湾の独自性を訴える演出が随所にほどこされていた。

当初5 万人の来客数を見込んでいた台湾喫茶店には、その2 倍以上の約11 万人(他に優待無料客約6800 人)が訪れ、一日平均約800 人の盛況を博した。また、中間報告だが、台湾料理店の来客数は=日平均250 人にのぼったという。」と説明すると森が「凄いですね。台湾館大成功って感じですね。でも、台湾は何故、この博覧会に参加する事を決めたのですか?」と素朴な疑問を賀田にぶつけてきた。

賀田はニコニコしながら「森君、良い質問だね。第五回勧業博開催時の台湾総督府の課題は、台湾経営を治安面・財政面で安定させる一方で、今後それを支えていく人材と資本を確保することにあった。

人材・資本不足の大きな原因が、台湾に対する内地人の印象だよ。台湾と聞けば、「異質」「未開」「野蛮」という誤解がまだまだ内地には根強く残っていた。そのため、優秀な人材が台湾には集まりにくく、この点は、後藤新平長官も非常に頭を痛めておられた。

さらに、統治政策を進める上で、日本がどれほど優れた国であるかを示すことで、台湾に居る台湾人、特に、漢人達の不平不満を抑える必要がある。

そこで、後藤長官は、この博覧会を活用し、台湾島民を博覧会見学に連れだす「内地観光」事業、さらに、島内から博覧会に出品する台湾産品を広く募集し、本国および海外の観覧客に紹介する「台湾館」出展事業の2つの事業をお考えになった。

まず、内地観光の目的は、日本産業の「進歩」を見せることで台湾漢族を「殖産興業」に駆り立てると同時に、文明国・日本への「心服心」を植え付ける事が目的だった。

台湾館出展事業の目的は、台湾社会の現状を日本国内に伝えることで旧来の台湾に対する誤った印象、すなわち、「未開」「野蛮」という印象を払拭させ、内地から統治経営にとって必要な人材と資本を誘致するという政策意図があったのだよ。

 後藤長官は、新たな日台関係を築くためには、言葉よりも実際にモノを見せるという「視覚」を利用した戦略が有効であるという長官の哲学でもある、「意識改革のためには物質的欲求に訴えかけるのが一番」を実践されたのだよ。」

と賀田が言うと森は「なるほど。百聞は一見に如かずですね」と答えると隣に座っていた最年長の菊地が「森、難しい言葉知っているな!」と森の頭を撫でまわした。その様子を見ていた他の仲間は大笑いし、賀田も笑った。

しかし、直ぐに賀田の顔から笑顔が消え、ややトーンダウンした声で「しかし、実際には後藤長官の思惑とは違う方向に進んでしまったのだよ。」と言った。

その様子に一同は一気に静まり返った。

 後藤新平の目指していた結果とは違う結果になってしまった台湾館。一体、どの様な結果になり、何故、そうなったのか。賀田はゆっくりと話し出した。


台湾館

国立国会図書館 博覧会近代技術の展示場(1903年第五回内国勧業博覧会)より


台湾館の設計 松田京子(2003)『帝国の視線』吉川弘文館,59 頁 より。

【参考文献】

阿部純一郎 「帝国期日本のネイション形成と人種・民族研究の学知形成に関する移動論的研究:日本と台湾の博覧会事業および観光政策に注目して」(2010年、名古屋大学博士学位論文)

台日報 「台湾館(一)」 明治36 6 7

第五回内国勧業博覧会要覧編纂所(1903) 『第五回内国勧業博覧会要覧(上)』『第五回内国勧業博覧会重要物産案内』 『第五回内国勧業博覧会総説博覧会案内』

台日報 『博覧会台湾喫茶店成績』明治36 8 26日 「台湾館内の売上高」明治36 7 9

阿部純一郎 博覧会における「帝国の緊張」 第五回内国勧業博覧会(1903)における内地観光事業と台湾館出展事業 文化情報学部紀要,第11 巻,2011


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