台湾近代化のポラリス 新渡戸、賀田から見た後藤新平人間像

 今日も台北の賀田組本店2階には、若手従業員達が集まっていた。彼らは社長である賀田金三郎から、台湾統治初期の話を聴くことが楽しみで仕方なった。自分達の知らない時代、しかし、つい先頃の時代。そして、その時代があったからこそ、今、自分達は台湾の地で働いている。その時代の話を、実際に、その時代を生きてきた賀田金三郎から話を聴くことで、更に、台湾を理解し、これからの人生の糧にしたいと思っていた。それ故に、誰もが真剣に賀田を話を聴き、質問をするという活気にあふれた時間であった。

 「社長、後藤新平長官というお方は、どの様な性格をされていた方なのですか?」と最年長の菊地が尋ねた。賀田は「一言で表現するのは非常に難しいね。では、ここからは、私自身が見聞きした後藤長官の人間像について話をしよう。」と言って、椅子に座り、足を組むと、書棚の方に目を向けた。そこには、賀田と後藤が一緒に写った写真が飾られていた。

「まず、新渡戸先生からお聞きした話だが、後藤長官は一般的に非常に頭の良い方だと思われているようだが、新渡戸先生は頭の良さでいうならば、児玉源太郎総督の方が上だと思われていた。例えば、湾岸修築、殖産、藍の栽培等々、技術的な話をした場合、児玉総督が10分でご理解されるところ、後藤長官は20分を要する。そう言った意味での頭の良さならば、児玉総督の方が上。しかし、後藤長官は医師出身であるが故に、理論立てて話をすることを好まれた。全ての面で、理論、秩序というものを大切にされたお方と思われたそうだ。確かに、物事の考え方が秩序というものを常に重んじておられた事は間違いない。

 また、私と新渡戸先生の意見が一致した部分は、後藤長官は情の人であると言う点だった。多方面に気配り、目配りの出来るお方で、それらを一つにまとめ上げる本能的能力は人並外れたものがおありだ。

 後藤長官がある日、「人は私の事を大風呂敷などと呼ぶが、その風呂敷を俺がぐっと引っ張れば、何もかもが一緒になって引き込まれる」とおっしゃった事がある。これは、色々な面に気配り、目配り出来なければ不可能な事なのだよ。

哀れみの心、情け心、他人を不憫に思う心が常に、言葉の端々に現れている。人はよく一時的な感情で言葉を発したり、行動に出たりするが、後藤長官においてはそれは一切なかったと言えるだろう。情の人であると同時に、物事を常に秩序、理論立ててお考えになるお人だから。

 そう言えば、以前、鹿児島から来られたあるお方が、人相を見るのが非常に得意とされており、その方が、『後藤長官は、金ぴかの正服を着ているが似合わない。あの方の本性に似合うのは墨染の衣だ。あの方の腹の中は、政治家でもなければ、学者でもない。まして、実業家でもない。僧侶が一番お似合いな方だ。どことなく、脱欲した心をお持ちだね』と言われたことがある。

この事を新渡戸先生にお話しすると、先生は『確かにそうですね。後藤長官は俗世間を離れた感じがありますね。私の様に、朝から晩まで部屋に閉じ籠り、読書に丹念して、人との交際も少ない。訪問は御免被ると言って、書斎にばかりいる連中ですら、俗世間から離れるというのは難しいにも、あのお方は、最も俗なことをやっている真っただ中に居ながら、俗世間とは離れている。言い方は悪いかもしれないが、汚れた仕事場、世の中の不純の場所とも言える環境。そこには、金の関係もあるし、婦人の関係もある。色々なことが著いて廻る。そうした泥水の中に居ながら、あのお方のお考えは別のところにあるように、常に清い泉が湧き出ている感じがする』とおっしゃった。

 ある時、新渡戸先生と後藤長官がイタリアへ行かれた時の話なのだが、イタリアのフローレンスで新渡戸先生は大理石の平和の像の置物を児玉総督のお土産に買われたそうだ。児玉神社に奉納されているよ。その時、後藤長官もある像を買われたそうだ。後藤長官が手に取った像を見て新渡戸先生に『これが気に入ったのだが、これが何の像だね』とお尋ねになったので見てみると慈善の女神の像だったそうだ。それを知った後藤長官は『日本で言う福の神だな。これはいいものを見つけた』と大変お喜びになり、店を出てからも『今日はいいものを見つけた。あれは僕の神様だよ。』ととても喜んでいらっしゃったそうだ。

 実は以前、後藤長官からお聞きしたのだが、長官が一番やりたいと思っておられるのは、慈善事業だと。そして『無論、僕の終生は慈善事業だからね』ともおっしゃっていた。

日清戦争後、日本は清国から2億円の賠償金を受け取ったが、その時、後藤長官は政府に対し『その中の5000万円を私にください』と言われた。政府側が『何に使うのか』と尋ねると『この内幸町の両側に、(国会議事堂附近)立派な建物を建てる。そして、慈善市を設け、復員兵や孤児、体の不自由な人、貧しい人に対して支援をする場にする。誰もがそこに来れば、日本の天子様は有難い。人民保護の大御心がそこにはあると感じてもらえる場所にしたい。そうでなければ、社会問題など到底解決出来やしない』と述べられたそうだ。

 後藤長官の元には、常に、生活に困った書生さん達が集まってくる。最初の一回目は長官も書生さんに対してお叱りになる。『青年がそんな風でどうする』といった具合に。すると書生さんが『実はここ3日ばかり何も喰っておらず』と言うと、長官は涙をボロボロ流しながら『それほどまでだったのか』と言って、30円を握らせることもあった。」と賀田はその時の光景を思い出しながら話した。すると最年少の森が「後藤長官がお泣きになる!」と驚いたように叫んだ。賀田は「実は後藤長官は非常に涙もろいお方だった。ある時、築地の料亭で政治家達のあつまりがあった。新渡戸先生もご出席されていた。私も後藤長官からお誘いを受けて参加させてもらったのだが、余興で、講談があった。児玉総督もご出席されていたが、児玉総督は涙を流しながらその講談を聞いておられた。しかし、それ以上に大泣きされていたのが後藤長官だった。新渡戸先生が隣に座っていた芸者に『本当に悲しい話だね。児玉さんですら泣いておられる』と言うと、その芸者は『けれども、一番よく泣いておられるのは後藤さんですよ』と言ったそうだ。それほど涙もろい面もお持ちの方なのだよ。

 奥様の和子様がご病気で危険な状態にある時の話だが、当時、長官は内務大臣をなさっており非常にお忙しかったのだが、時間を見つけては奥様のお見舞いに行かれていた。ある時、奥様の床の側に行って『具合はどうだ』と奥様にお尋ねになると奥様は長官の頬を撫でながら『夫の後藤新平・・・・。良いところもあるけれど、ただ、感情に走り過ぎない様になさい。そこが危ういですよ。しっかりしないと感情に走りますよ。』と言われたそうだ。」と賀田は言った。

 政治家、官僚として表舞台で活躍し続ける後藤新平。しかし、その本当の姿を知るものは少ない。「大風呂敷」と揶揄するものもいたが、後藤新平を良く知る人々は決してそうは思わなかった。新渡戸稲造も賀田金三郎も後藤新平の素顔を見てきた人間の一人である。



正服姿の後藤新平

名古屋大学 近代医学黎明デジタルアーカイブより

【参考文献】

新渡戸稲造 後藤新平伯を偲びて

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