台湾近代化のポラリス 新渡戸稲造1

 新渡戸稲造という名を聞いて真っ先に思い出すのが旧五千円札の肖像ではないだろうか。しかし、「では、新渡戸稲造は何をした人ですか?」と聞くと、「武士道を書いた人」と答える人が多いと思うが、それ以外に何をした人かを知っている人はどの程度いるだろうか。

今回からは、主人公である後藤新平台湾総督府民政長官と新渡戸稲造との関係について書いていきたいと思う。

「台湾の近代化政策を行う上で重要な事がまだ残っているのだが、君たちはわかるかね。」と賀田組社長の賀田金三郎は彼の話を聴きたいと集まった賀田組若手従業員達を見渡した。すると、彼らの中で最年長の菊地が立ち上がり「拓殖及び殖産部門ではないでしょうか」とやや緊張気味に答えた。その答えを聞いた賀田は満面の笑顔で「その通りだよ菊地君」と大きな声で言うと、菊地の隣に座っていた最年少の森が「さすが菊地兄!」と言って拍手した。菊地は少し照れながら座った。

賀田は「後藤長官の描かれている台湾の近代化政策の中で、拓殖、殖産事業は今までに述べてきた衛生事業、鉄道事業、道路事業等々の事業を完成させる上で必要不可欠なものだった。

台湾国内に産業を興すこと、そして、人が住みやすい環境を作ることで、台湾は自立し、内地を上回る経済発展が成し得ると後藤長官はお考えになった。では、ここでもう一つ君たちに質問がある。この拓殖、殖産事業を遂行する上で、欠かせない人物は誰かね」と言って再び、彼らを見渡すと、森が「これはわかります。賀田社長です。だって、未開の地、不毛の地と言われた東台湾を開拓し、台湾で初めての日本人移民村を作り、賀田農場を作り、サトウキビやタバコの葉の栽培を行い、製糖工場も作られた。絶対に賀田社長です。」と鼻息荒く答えた。他の者も「その通り!」と言って、賀田に対し、拍手を送った。

これにはさすがの賀田も気恥しさを隠せず「ありがとう。皆がそう言ってくれることは本当に嬉しいし、有難い。しかし、私が東台湾の開拓を行う際、あるお方にまず、相談をさせて頂いた。そのお方の助言を基に、賀田農場、賀田村、賀田製糖所等々を作ることが出来たのだよ。そのお方というのは、新渡戸稲造先生だ。

今日は、新渡戸稲造先生について話をしたいと思っている。」と言いながら、全員の顔を見渡した。森は「新渡戸稲造先生もすごいだろうけど、賀田社長の方が僕は凄いと思うけどなあ・・・」とやや不満像に独り言を言った。賀田は森の独り言に気づかないふりをして話を続けた。

「まず、新渡戸稲造先生の生い立ちから簡単に説明をしよう。新渡戸先生は、私より5歳年下にあたり、文久2年(1862年)83日(新暦91日)、陸奥国岩手郡盛岡城下(現在の岩手県盛岡市)に、藩主南部利剛の用人を務めた盛岡藩士新渡戸十次郎氏の三男としてお生まれになった。当時、お父上とお爺様が行った三本木原開拓の地域で初めてとれた稲にちなみ、幼名を稲之助と名づけられた。慶応31867)年新渡戸先生が5歳の時、お父上の十次郎氏がお亡くなりになり、藩内の賢婦人として名高かったお母上のせき氏の「父や祖父の子といわれるように、偉い人にならねばなりません」という教育のもとでお育ちなった。新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、この頃から新渡戸先生は西洋への憧れを心に抱かれていたそうだ。やがて盛岡藩校作人館に入り、その傍ら新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習われた。お爺様の傳氏は江戸で豪商として材木業で成功し、再び盛岡藩に戻り、幕末に早世した次男十次郎氏に代わって新渡戸家の家計を大いに助けておられた。

明治4年(1871年)、新渡戸先生9歳の時、東京で洋服店を営んでいた叔父様の太田時敏氏(傳の四男)から「東京で勉強させてはどうか」という内容の手紙が届き、新しい学問を求めて東京へと旅立たれた。この時、名を稲造と改めたそうだ。

上京後は叔父様の養子となって太田稲造として英語学校で英語を学ばれた。

翌年には元盛岡藩主である南部利恭氏が経営する「共慣義塾」にご入学され寄宿舎にお入りになったのだが、授業があまりにも退屈なために抜け出すことが多かったそうだ。この日頃の不真面目さが原因で、叔父様からは次第に信用されなくなっていった。そのため、自分の小遣いで手袋を買ったにもかかわらず「店の金を持ち出した」と疑われることもあったという。その一件が有ったのちは、信頼を回復しようと新渡戸先生は人が変わったように勉強に励むようになられ。

明治8年(1875年)、新渡戸先生13歳の時、東京英語学校(後の旧制第一高等学校、東京大学教養学部)にご入学。この頃から生涯の親友となる内村鑑三氏(キリスト教思想家)、宮部金吾氏(植物学者)、佐藤昌介氏(後の北海道帝国大学初代総長)と親交を深められた。特に、佐藤昌介氏とは暇を見つけては互いのことを語るようになり、この頃から新渡戸先生は自分の将来について真剣にお考えになるようなったそうだよ。その後、お父上やお爺様の志を継ぎ農学を修めるため、明治10年(1877年)内村氏、宮部氏と共に札幌農学校(現北海道大学)の二期生としてご入学された。

実は新渡戸先生が農学を修めようとお決めになったきっかけはもう一つあり、明治9年(1876年)明治天皇が東北御巡幸の折り、新渡戸家で休息されていた明治天皇から「父祖伝来の生業を継ぎ農業に勤しむべし」という主旨のお言葉をかけられた事が大きく影響していると思われる。

在学中、札幌丘珠事件*1が発生し、加害獣である巨羆の解剖された。新渡戸先生は、かなり熱い硬骨漢であったようで、(新渡戸家の血筋)ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、新渡戸先生の名前があったそうだ。すると新渡戸先生は、「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、他の学生たちがいる前にもかかわらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められたことがあるそうだ。その時は、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れたのだがね。

他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり「アクチーブ」(活動家)というあだ名を付けられていたそうだよ。

しかし、新渡戸先生にとって大きな転機となったのが、キリスト教へお入信だった。同期の内村鑑三氏(宗教家)、宮部金吾氏(植物学者)、廣井勇氏(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから洗礼を受けられた。クリスチャン・ネームは「パウロ」であった。その後、キリスト教に深い感銘を受け、のめり込んでいかれた。例えば、学校で喧嘩が発生した際「キリストは争ってはならないと言った」と仲裁に入ったり、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽ったりするなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌されたそうだ。その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三氏等が「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名だそうだ。

この頃から新渡戸先生は視力が悪化し、眼鏡をかけるようになったが、やがて眼病を患い、それが悪化して勉強への焦りから鬱病までもを患ってしまった。数日後、病気を知ったお母上から手紙が送られてきて、明治13年(1885年)、新渡戸先生18歳の時、9歳の時上京してから一度も会わずにおられたお母上のせき氏にお会いになるために故郷へ戻られたのだが、「ハハキトク」の電報と入れ違いに帰郷した新渡戸先生は、お母上の死を知らずに故郷に着かれ、三日前にお亡くなりになったお母上の亡骸と対面されることになった。

新渡戸先生にとってあまりにも大きすぎる悲しみであったがため、鬱病がさらに悪化してしまった。その後、お母上の死を知った内村鑑三氏からの激励の手紙によって立ち直り、病気の治療のために東京へ戻られた。その後、洗礼を授けたメリマン・ハリス宣教師と横浜にて再会し、トーマス・カーライルの『衣服哲学』(『サーター・リサータス』、Sartor Resartus)という一冊の本を譲り受けられた。この本は新渡戸先生の鬱病を完全に克服し、やがて愛読書となり、生涯に幾度となく読み返されたそうだ。

また、新渡戸先生は後に、お母上からもらった手紙を一巻の巻き物にして、お母上の命日には一人静かに部屋に引きこもりそれを開くのを習慣とされていたそうだ。」と言ったところで、森が大粒の涙を流しながら「新渡戸先生のお気持ち、よくわかります。僕も、母ちゃんの死に目には会えなかった。」と泣き出した。菊地は守男方に手をまわし、森をしっかりと抱きしめた。この時賀田も、自分も母親の死に目に会えなかった事を思い出し、目にいっぱいの涙をため、その涙を誰にも気づかれない様に、椅子から立ち上がり、後ろを向き、窓の外を見ながらそっと涙を拭った。窓の外は、夕焼けで空が茜色に染まっていた。

 

若き日の新渡戸稲造

近代日本人の肖像 国立国会図書館


*1 札幌丘珠事件(さっぽろおかだまじけん)とは、1878年(明治11年)111日から118日にかけて北海道石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村(現在の北海道札幌市東区丘珠町)で発生した、記録されたものとしては日本史上4番目に大きな被害を出した熊害事件。冬眠から目を覚ましたエゾヒグマが猟師や開拓民の夫婦を襲い、死者3名、重傷者2名を出した。

 

【参考文献】

新渡戸記念館ホームページ

松隈俊子 新渡戸稲造

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