台湾近代化のポラリス 潮汕鉄道最終章 長谷川謹介と佐藤謙之輔
ここは台北市書院街にある賀田組事務所の2階。賀田組台北事務所(本店)は、総督府からも近く、民政長官である後藤新平の官舎にも近い場所に設けられていた。
事務所2階では、社長である賀田金三郎から話が聴きたいという事で、若手従業員達が集まっており、日本が台湾を統治した当初の話を仕事が終わってから賀田を囲むことが恒例になっていた。
「さて、いよいよ「潮汕鉄道の建設が始める訳だが、実は、その直前、後藤新平長官と長谷川謹介先生との間でちょっとした事件が起こったのだ」と賀田が言うと、若手従業員の中では中堅クラスで、最年長の菊地の弟分的存在である青木が「えっ、事件!でも、長谷川先生は後藤長官からの信頼も厚く、長谷川先生も、潮汕鉄道建設事業は必要不可欠だとお考えになっていたのに、事件が発生したのですか」と驚いた口調で尋ねてきた。
賀田は「長谷川先生は普段は非常に口数の少ない、温厚な性格をされた方だったのだが、あることが原因で激高されたのだよ。そのあることとは・・・・・」と言うと、窓の外を眺めながら遠くを見た。
秘書官に対し後藤は「何でもない。直ぐに出ていきなさい」と言わんばかりに目配せした。秘書官は一礼して部屋を出ていった。後藤は長谷川に対し「長谷川さん、落ち着いてください。まずは座ってください。座って話をしましょう」と長谷川に対して言った。長谷川は興奮冷めきれぬ状態ながら、後藤に促されソファーに座り直した。
「本件は総督及び長官の内旨を含み数か月に亘り愛久澤氏が苦心慘澹して獲得した包辨契約であって、併も内容は実に完整無缺と云ふべきに、今に至り閣下が援助を躊躇せらるるといふのは如何次第であるか不肖の実に訝みに堪えざる所である。かく取扱はるるに於いては結局独り愛久澤氏を憤死せしむるばかりでなく,不肖の如きも素々内地に於ける幾多関係事業を放し擲して遠く台湾に微力を尽くさんと決意するに至った次第は閣下の南清経営の大抱負を協賛せんが故であったのであり,又多数部下も不肖と同じく其意を体して粉骨碎身しつつあるのである。然るに今に至って空しく此好機を逸せらるるとなれば之は不肖の到底よく忍び得ざる所なるが故寧ろ自決するを然るべしと思ふ。」と訴え、手に持っていたグラスを握りつぶしたのであった。
後藤にとっては、この鉄道事業が台湾を拠点とした南進政策実現のために非常に重要であると思っていただけに、この契約締結はそれほどまでに嬉しい出来事であった。
「この計画さえ実現すれば、これまで台湾を軽視していた内地の連中も、台湾がどれほど力があり、重要な拠点であるかを認識するはずだ。」と後藤は心の中で叫んでいた。
この為、後藤氏は愛久澤からの計画実行のための援助することに対し、決断を下すことが出来ずにいた。この態度に長谷川が前述の如く激怒したのである。
ちなみに、佐藤謙之輔技師は山口県の士族の出身で、大阪英語学校と鉄道工技生養成所では長谷川先生の後輩にあたる方。卒業後は日本国内の鉄道建設を担当され、白河‒宇都宮区間に配属され、明治30年(1897年)には日本の中国鉄道工務課長に昇進された。長谷川先生が台湾へ移られ技師長になってまもなく、佐藤技師も助手として来台され、明治33年(1900年)に台湾総督府鉄道部工務課技師となられ、3年後には鉄道部打狗出張所所長となられた方で、当時鉄道部のなかで重要な人材のお一人だった。
一行は5月末に汕頭に到着し,潮汕鉄道建設部を設置,佐藤技師を潮汕鉄路公司技師長とされた。6月より線路の測量に着手、1か月余りかけて測量を終え、平面・断面の2種類の実測図を会社に提出。同社社長であった張京堂(張煜南)氏の承認を得た後、土地買収を始めると共に、日本人技師が建設部において詳細な設計図を作成し、工事再委託の準備を始められた。
翌年の明治38年(1905年)3月には、長谷川先生が愛久澤氏等と一緒に汕頭に赴き、自ら測量船を視察され、設計上の各項目について詳しい指示を加えられ、3月24日に台湾に戻られた後、直ちに建設計画を作成されたのだ。」と言うと、「社長、山口県からは社長や長谷川先生、佐藤技師と、台湾の近代化に大きく貢献された方が多数輩出されているのですね。」と、自分も山口県出身である菊地は誇らしげに話した。
筆者としては、山口県関連のデーターを様々見てきたが、残念なことにこの21世紀の世の中では、賀田金三郎、長谷川謹介、佐藤謙之輔といった台湾近代化に大きく貢献した、いわゆる縁の下の力持ち的存在の人物については、地元でもあまり知られていない事を悲しく思うばかりである。佐藤謙之輔氏は、後に、八田與一氏の事業にも大きく貢献をしている人物である。
佐藤謙之輔 鉄道部技師任命文書
佐藤謙之輔 鉄道部休職文書
佐藤謙之輔 鉄道部復職文書
【参考文献】
「潮汕鉄道ニ關スル清国公文書類寫送附ノ件」(『日本外交文書』第38卷第2冊(原文書:明治38年(1905)9月2日,第25冊第1080号)
津田素彦 「潮汕鉄路建設顛末」
鉄道建設業協会 「日本鉄道請負業史」
「潮汕鉄道敷地ノ測量購入進行況等報告ノ件」(『日本外交文書』第37卷第2冊(原文書:明治37年(1904)10月31日,第19冊第810号)
「鉄道技師佐藤謙之輔外一名休職ヲ命セラル」(『台湾総督府公文類纂』明治37年(1904)5月21日,9卷1019冊64号
高野義夫 「旧植民政人事総覽」台湾編1
蔡龍保 「長谷川謹介與日治時期台湾鉄路的發展」(中文)
長谷川謹介
「汕頭潮州間鉄道路踏報告」
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