台湾近代化のポラリス 潮汕鉄道5 長谷川謹介2

「福建省、江西省を貫く大鉄道計画が必要だと言っておきながら、調査までさせて、最終的に資金不足だから計画中止って、やっぱりどう考えても納得できないなあ・・・」と賀田組若手従業員の中で最年少の森の腹立ちは収まる様子が無かった。

賀田金三郎は森に対し、「森君の気持ちは理解出来る。実は長谷川謹介先生も同じような気持ちだった。この時期を逃せば、日本の南進政策の実施は難しくなると長谷川先生もお考えだったようだ。丁度その頃だった。明治36年(1903年)11月に、愛久澤直哉氏は呉理卿氏との間で、共同で潮汕鉄道建築に関する密約が結ばれたとの報告が台湾総督府に届いた。

そこで、後藤新平民政長官兼達同部部長は、長谷川先生に対して、秘密裏に潮汕鉄道の路線調査に向かう様に指示した。あくまでも秘密裏に行う必要があったため、表向きは狩猟という事になった。この知らせを聞いた長谷川先生はたいそう喜ばれたそうだ。

長谷川先生は、1110日に、津田素彦技師と共に、調査に出発された。

翌日の11日に厦門に到着し、そこで愛久澤氏と合流。各事項につき話し合った後、通訳の王乾生氏を伴って、厦門の日本領事と旅行の手続き及びその他関係事項につき相談を行い、領事館が発行した惠潮嘉道の道台に宛てた紹介状を持って12日には汕頭に到着された。

汕頭は欧米の宣教師以外は外国人旅行者が少なく、視察の道中に旅館等はなかった。安全性等々を考慮し、船中泊する事をお決めになった。長谷川先生は、王氏を上陸させ小舟を借り、苦力を雇い、食料や寝具を詰め込んで出発した。これは潮汕鉄道事業の正式に契約を締結する前の踏査であったため、全てが秘密裏に行う必要があった。長谷川先生たちは、手に入れた正確な地図を懐に潜ませ測量器やコンパスの使用は,いつも公衆便所で隠れて使用していたそうだ。

12日には、嶺東同文学堂の教師である熊澤純之助の協力の下、汕頭から韓江支流を約1.5海里遡った地点で停泊。

13日は、川を遡る際に,長谷川先生は下船し付近の地勢を視察、津田氏は徒歩での調査を行った。この日の行程は約16から17海里だったのだが、その内10海里は徒歩で調査にあたられた。

14日も引き続き川を遡り,前日同様下船して調査を行い、13海里の行程の内、6.6海里は徒歩で進み、遂に潮州府に到着された。

この旅は名目上の目的は狩猟。故に、名勝巡りを装う必要があった。

15日には潮州内外一帯を視察され、当日の晩に,汕頭益安両替商の楊成鏡氏(日本籍)の歓待を受けた。

参加者8人は全員が潮州府の紳商で,長谷川先生はこの機に地方の状況を聞き,津田氏に筆談をさせたそうだ。

その日の晩に出発し、16日に汕頭に戻り、曾光亮(日本籍)のところで1泊された。17日に汕頭から香港へ向け出発。長谷川先生は、移動時間を利用して、汕頭の経済状況や貨物の集散状況等を詳細に調べ、将来の鉄道計画の予算を作成した。18日に香港に到着され、19日に澳門を視察され20日に広東に戻り、21日には粤漢線を担当した経験のある日本人技師を訪れ、更に逓信省鉄道局技師山本新次郎氏の紹介により、 粤漢線を担当した外国人技師にもお会いなるという忙しい予定をこなされて,28日に台湾にお戻りなった。

この長谷川先生の線路調査について、調査に同行した津田技師は『長谷川氏が此線路を踏査せらるるに当っては,其観察実に周到微細を極め毫末も看過する処がなかった。何等信憑すべき地図すらない未知の地方を踏することとて甚大の困難があったに係らす透徹せる観察眼と

豊富な経験とに基く判断は克く肯綮に当りて過らず,適切な方針を確立された一事は敬服の外ない。』と絶賛された。

 

長谷川先生は、測量を行うべき場所について事前に熟慮していた。その結果、鉄道は船の交通がない中央平原に敷設するべきという方針で測量を実行するべきだとお考えになった。

何故、船の交通量がない中央平原が最適だと判断されたのかだが、まず、水量が少ない冬季は、韓江における船の行き来は完全に途絶えてしまうが、それ以外の時期は比較的自由に行き来する事が出来る。

そうなれば、川沿いに鉄道を建設すれば、船との競争になり不利となるとお考えになった。

また、洪水が発生し堤防が決壊すれば、川に近い場所は水流が速く被害も大きくなるとお考えになった。」と賀田が言い終えると、森が「社長、川が氾濫して洪水になる可能性はわかりますが、でも、どうしてそこまで長谷川先生は韓江の堤防が決壊するかもしれないと思われたのですか。」と不思議そうな顔をして尋ねた。賀田は、「そこが長谷川先生の洞察力の凄さなのだよ。実は、韓江を遡りながら地勢を視察している時に、偶然、楓溪の南側にあった広々とした田畑の中に、無数の大小の丘があるのを見つけられた。これを見つけた際に、同行していた津田氏に「あれ等の草丘は、往時堤防潰決して田園を埋沒したる土砂を農民が鋤取り堆積したものと思う。後日線路を決定するに際しては更に詳しく調査して善処すべきである。」とおっしゃったそうだ。そして、潮州に到達後、津田氏が現地の老人に聞いたところ、長谷川先生の推測した通り、東門付近で堤防が決壊し、大きな被害が出たということだった。」これを聞いた森は「すごいなあ。僕だったら測量する事で精いっぱいで、そこまで気が付かないだろうなあ。」と今度はただただ感心するばかりだった。

 

賀田はそんな森を笑顔で見ながら話を続けた。「長谷川先生は台湾に戻って2週間ほど経った1215日に、「汕頭潮州間鉄道線路踏査報告」を後藤長官に提出された。この報告書の内容がまた見事だった。詳細な踏査状況や潮汕地区の人口、商業貿易、水陸交通、地形、地質、河川、産業、貨物等の関係情報が記述されおり、更に汕頭、潮州府間に鉄道を敷設することに対する開発価値、工事の容易さ、鉄道敷設の提案も詳細にご自身のお考えを記載された。そして、建設予算も試算され、一緒に報告書の中に記載されていたのだよ。

最初に言ったように、この時期、長谷川先生は、台湾縦貫鉄道工事と同時並行でこの重要な任務を遂行された。しかも、明治34年(1901年)と明治36年(1903年)の二回、秘密裏に華南鉄道の調査を行っておられる。

長谷川先生は『私は児玉源太郎総督と後藤新平民政長官よりこの様な重要な任務を任された事を誇りに思っており、お二人の信頼にお応えするためには、完璧な調査と報告を申し上げる必要があります。』とお会いした際に私におっしゃっていた。」と賀田は長谷川謹介の仕事に取組み姿勢に対し、敬意をはらうように言った。

 

台北駅には長沼守敬作(1911年(明治44年)製作)の長谷川謹介銅像があったが、

     戦後は不明      聚珍臺灣より借用

 

 

長沼守敬が製作した像の頭部は、東京芸術大学大学美術館と岩手県立美術館に収蔵されている。

 

【参考文献】

長谷川謹介 「汕頭潮州間鉄道路踏報告」

津田素彦 「潮汕鉄路建設顛末」

長谷川博士編纂会 「工学博士長谷川謹介伝」

蔡龍保 「長谷川謹介與日治時期台湾鉄路的發展」

蔡龍保 日本統治期における台湾総督府鉄道部の南進政策 清国広東省潮汕鉄道の事例 立教経済学研究第巻第5号年

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