台湾近代化のポラリス 潮汕鉄道4 長谷川謹介1

 「私と同郷の長門国厚狭郡千崎村(現、山口県山陽小野田市)出身で、私より2歳年上にあたる長谷川謹介先生。長谷川先生の台湾でのご活躍は以前にも話したが、台湾鉄道の父とも言われる偉大なお方だ。

長谷川先生は、大阪英語学校にご入学後、外人経営の神戸ガス事業に入られた。その後、鉄道寮(後の鉄道局)傭となられ、お雇い外国人技師に従い通訳ならびに測量手伝いの任にあたられた。

明治10年(1877年)514日に、鉄道工技生養成所が創設され第1期生として入所された。同所ご卒業後、深草・逢坂山間の工事、大津線工事、敦賀線柳ヶ瀬トンネル工事、柳ヶ瀬トンネル工事などをご担当され、明治17年(1844年)411日に、野田権大書記官に随行して欧州出張を命じられた。翌年の明治18年(1845年)23日には、英国土木協会準会員になられた。その後も、揖斐川及長良川橋梁工事、天龍川橋梁工事をご担当され、明治22年(1889年)2月に、鉄道局盛岡出張所長を拝命され、日本鉄道会社線*1の日詰・小繋間の工事をご担当された。

明治25年(1892年)41日に鉄道庁を辞職され、日本鉄道会社に入社、幹事となられ、盛岡建設課長にご就任され常磐線の建設をご担当された。

明治27年(189471日に水戸建設課長となられ、明治30年(1897年)1015日には、岩越鉄道会社技師長を嘱託された。

翌年の823日に常磐線が開通し、水戸建設課は廃止になり、日本鉄道会社は休職となられ、919日に岩越鉄道会社技師長専任となられた。

そして、後藤新平長官から懇願され、明治32年(1899年)41日 に台湾総督府臨時台湾鉄道敷設部技師長にご就任され、同年118日に台湾総督府鉄道部技師長、明治39年(1906年)1113日には台湾総督府鉄道部部長にご就任された。

明治41年(1908年)34日に欧米及アフリカ南部への出張を命ぜられ(98日帰国後、同年125日には鉄道院東部鉄道管理局長に転任。明治44年(1911年)227日に西部鉄道管理局長に転任、大正4年(1915年)623日に中部鉄道管理局長に転任、大正5年(1916年)129日には、鉄道院技監にご就任。

遂には、大正7年(1918年)426日に、鉄道院副総裁にご就任された。(その後、918日に鉄道院副総裁を退任する。大正8年(1919年)628日に工学博士の学位を授与。大正10年(1921年)827日に東京市芝区芝公園内の東京鉄道病院で死去。)

この素晴らしい功績を持った長谷川先生が、潮汕鉄路建設に大きく関わっておられる。」と賀田金三郎は、集まった賀田組若手従業員を前に語った。台北市書院街に本店を置く賀田組の事務所2階では、仕事が終わった後、若手従業員達が社長である賀田金三郎の話を聴きたくて集まってくるのが恒例になっていた。

賀田金三郎は、今の山口県萩市出身で、台湾の近代化を語る上で忘れてはならない重要な人物であり、後藤新平からの信頼も厚く、賀田無しでは、台湾の近代化、東台湾の開拓、日本人移民村の実現は成し得なかったと後藤は賀田を絶賛している。

 「さて、日本政府の南進政策実現のために、台湾総督府が成すべき任務の重要性については今まで話をしてきて君たちも理解してくれたと思う。台湾総督府民政長官の後藤新平長官や専売局長の祝辰巳局長、参事官長石塚英蔵官長、小村寿太郎外務大臣、そして、愛久澤直哉氏と言った人々の清国側との様々な政治的駆け引きの結果、潮汕鉄路建設事業を勝ち取った訳だが、実務面において、長谷川先生の存在がなければ、この潮汕鉄路建設事業は絵に描いた餅で終わってしまったと言えよう。

日清戦争後の清国における列国の租借地獲得競争に直面していた日本は、台湾の安全を確保しつつ大陸への地歩を固めるため、清国に対し、福建省内の各地の不割譲を求めた。これに対し清国も福建省内および沿岸一帯を、いずれの国にも譲与または貸与しないと回答し、明治314月に、福建省を日本の勢力範囲と認めた福建省不割譲条約を締結したことを受けて、日本側は、実質的勢力を拡張する上で、さらには、軍事、経済の両面を考えて場合、鉄道建設を行う必要性を考え、翌年には、速逓信省嘱託の小川資源技師を福建、江西、浙江に派遣し現地調査を実施。明治33年(1900年)3月に清国政府に対し、「南清鉄道敷設計画」を提出したが、この計画は清国政府には受け入れられなかった。

南進政策を実現させるためには、華南鉄道の構築は絶対的にひつようなものであるために、台湾総督府としては重要使命の一つであると考えていた。

そこで、後藤長官は児玉源太郎総督に対し、再度の現地調査を訴え、明治34年(1901年)、台湾縦貫鉄道建設に奔走していた長谷川先生を台湾総督府に呼び出したのだよ。その時、後藤長官は、長谷川先生に対し、『私は台湾鉄道部の部長ではあるが、あくまでも名義上の事で、鉄道のことは全て長谷川君に一任している。今の時期、台湾縦貫鉄道の建設で長谷川君が最も多忙な時期であることは承知しているが、この台湾縦貫鉄道建設同様に重要な事項として、南進政策がある。そこで、清国の福建省、江西省の鉄道調査を行って欲しい。』と依頼された。

早速長谷川先生は、鉄道部技師の菅野忠五郎氏と北投温泉旅館松寿園の主である松本亀太郎氏と共に、調査へ出発された。菅野忠五郎氏は気圧計と測量器で高低と距離を測定、松本亀太郎氏は福州に住んでいたことがあり、語学が出来たため、通訳兼苦力の監督を担った。

一行は明治34年(1901年)11月下旬に台湾の淡水から厦門に渡り、漳州、泉州、興化を経由し福州に入り、閩江へと上流に渡り、延平を経由し南寧に至った。翌年の元旦には分水嶺を超え江西省に入り、南昌から九江に出て、揚子江を漢口まで上り、そこから上海、蘇州、杭州を経て同年2月に台湾に戻ってこられた。一行の目的は鉄道調査ではあったが、清国人に感付かれてはならず非常に注意して秘密裏に気圧計や測量器で高低や距離を測定し、土工の人数、橋梁やトンネルの長さ、駅の位置等を推定された。

長谷川先生はこれに基づき、福建、江西、江蘇、浙江の四省の鉄道網計画を策定、後藤長官、児玉総督に着手や施工の順序について詳細な意見書を提出された。

しかし、当時の日本は経済困難であった為、資金を捻出することができず、また外交上の制限もあり、結局は、福建省、江西省を貫く大鉄道計画は止む無く中止となった。

この計画中止には長谷川先生は日本は機会を逃してしまい華南地帯への進出は難しいと落胆された。」と賀田が言い終えると、最年少の森が「南進政策は重要課題と言いながら、資金捻出が難しいから鉄道建設は中止だなんて、納得いかないですよね。折角、長谷川先生が遠方まで出張されたのに。何だか腹が立ちますよね!」と珍しく顔を赤くして怒りながら言った。

賀田は「森君の怒る気持ちもよくわかる。しかし、話はまだこれで終わりではないのだよ。ここからがいよいよ潮汕鉄道建築に向けての長谷川先生が大活躍されるのだよ。」と森をなだめるように言った。

 

台湾鉄道技師長時代の長谷川謹介


*1 日本鉄道

日本鉄道株式会社は、かつて存在した日本の鉄道事業者である。1881年(明治14年)に設立された日本初の民営鉄道会社(私鉄)であり、現在の東北本線や高崎線、常磐線など、東日本旅客鉄道(JR東日本)の路線の多くを建設・運営していた。1906年(明治39年)に国有化された。

 

【参考資料】

蔡龍保 「長谷川謹介與日治時期台湾鉄路的發展」(『国史館学術集刊』第6期 2005年9月

台湾総督府『對岸鉄道豫定線路調報告』(台湾総督府民政部,大正7年(1918 )4月

菅野忠五郎 「南支那鉄道調」 (『工学博士長谷川謹介伝』(長谷川博士編纂会,昭和12(1937 )7月

鄭政誠 「日治時期台湾総督府對福建鉄路的規劃與局(1898-1912)(『史匯』第10,2006年9月)

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