台湾近代化のポラリス 台湾南北縦貫鉄道開通

 「台湾が近代化の道を歩む上で重要な土匪問題解決、言論統一のための新しい新聞社設立、上下水道整備、道路整備について話をして来たが、もう一つ、重要な事が残っているのだが、それが何であるか、わかるかね。」と賀田金三郎は集まっていた賀田組若手従業員達に問いかけた。一同は各自、真剣に考えだした。すると、思いもしない人物がつぶやいた。「鉄道かなあ・・・」と。賀田はその声のする方を見て「森君、その通りだよ。よくわかったね。」と目を細めて森の方を見て言うと、「先日、台湾鉄道に乗ったばかりだったので。」と少し照れ臭そうに言った。最年少の森が見事に正解を言い当てた事に、周りの従業員達も「森、凄いじゃないか」と口々に褒めた。

賀田は話を続けた。「台湾の鉄道の歴史は、清朝時代にさかのぼる。道路建設の時にも話した、台湾初代知事(巡撫)の劉銘伝が台湾で初めての鉄道を作った。

劉銘伝は、台湾の国防強化と殖産興業の意図のもとで、台湾支配の強化と急速な開発の推進を行おうとしていた。そのためには、鉄道の導入は必要不可欠と考えていたのだよ。

元々、中国最初の鉄道営業はイギリスの貿易商社だった怡和洋行 Jardine Matheson Co. によって、上海 ‐ 呉松間の鉄道計画に始まる。実はこの鉄道は清国政府の許可を得ずに着工されたそうだ。1874 年に起工し、1876年に営業運転が開始された。

鉄道としては利用者も多かったそうだが、開業早々、轢死事件を起こしてしまったり、鉄道の橋梁が灌漑用水の妨害になるなどしたため、農民の抗議も発生した。そこで見られた清国はこの鉄道を買収、撤去し、資材等一式を台湾に送ったことがきっかけで、台湾での鉄道建設が始まったのだよ。

1887 年に台湾鉄道が着工され、1891 年に基隆から台北までの鉄道が開通、1893 年に新竹までの鉄道が完成した。鉄道の全長は 107 キロ、建設費は銀 129 万両を費やした。工事計画、工事監督、測量はイギリス人の技術顧問を招聘していたが、工事は中国人の軍隊に任せたのだが、外国人技師との間では工事をめぐるトラブルが多発し、技師長が 5 回も入れ替わったそうだ。技術水準は決してたかいとは言えない内容だったそうだ。また、台湾北部の基隆から南部の恒春までを結ぶ縦貫線鉄道計画を当初は考えていたようだが、資金難から、基隆から新竹までとなった。しかも鉄道は軽便鉄道だった。

 日本が台湾を統治してからは、まず、初代台湾総督の樺山資紀総督は、「内外の防禦」に備えるために鉄道の建設が必要だとお考えだった。そのため、明治28年(1895 年)8月に、台北、台中、台南を経て高雄にいたる縦貫線鉄道建設を日本政府に対し要望された。日本政府は、軍事力の強化と産業の発展を目指し、鉄道線路の調査を翌年3月に77000円余の予算を組み命じた。

調査の結果、「3カ年継続事業として総工費約1539万円を要する」との結論に至った。この調査結果を受けて、台湾総督府の援助の元、同年5月、実業界の265人が発起人になり「台湾鉄道会社」の設立が計画されたのだが、この計画は残念ながら途中で頓挫してしまった。

 後藤長官が台湾に着任されて、台湾の鉄道整備について「民間経営ではなく、国営にすべきである。」とご判断され、予算案を内地議会に提出し賛同を得られた。予算成立が可能と考えた後藤長官は、臨時台湾鉄道敷設部を定め、自ら部長に着任され、鉄道作業局長官の松本荘一郎氏に対し、「縦貫鉄道建設を任せられる技師長を推薦して欲しい」とご依頼され、その結果、私と同郷で、長門国厚狭郡千崎村(現、山口県山陽小野田市)出身で、元日本鉄道技師長・岩越鉄道会社技師長であった長谷川謹介氏が189941日、高等官2等(年俸3500円)として着任された。

長谷川氏の鉄道建設の基本理念は「1メートルでも先へ、1日でも早く、できるだけ収入を」というもので、このやり方を「速成延長主義」と陰口をたたく者もいたが、長谷川氏は全く気にせず、「結果良ければ全て良し」とした。後藤長官がおっしゃっていたが、「自分は台湾鉄道部創設から台湾を去るまで台湾鉄道部長の職にあったが、それはただ名義だけの部長で鉄道のことは長谷川君に一任して判を押していたに過ぎない」と長谷川氏に絶大なる信頼を寄せておられた。

明治32年(1899 年)、10カ年継続事業として2880万円の予算を組み、縦貫線の建設と鉄道の改良工事を本格的に着工したのだが、工事はほとんど新設に近い大規模なものとなった。改良工事によって清国時代の基隆 - 新竹間の既成線路 107 キロを 99 キロにまで短縮した。続いて鉄道を新竹以南へ伸ばす工事が始まり、明治41年(1908 年)全線が正式開通した。基隆 - 高雄全長 404.2 キロにわたる縦貫線の完成となった訳だ。

実は台湾鉄道の線路選定には、樺山総督や陸軍省の軍事線構想と後藤長官の産業線構想との間で対立が生じていた。軍事目的の山沿い線は、海からの攻撃を避けられ、鉄道線路を守りやすかった上、山に残留した土匪勢力と原住民の掃討にも利用できる軍事線であったのだが、一方で、産業線構想の海沿い線は、都市部や人口の密度の高い地区を中心としており、米や砂糖の生産地との距離、物資の輸出に重点をおいていていた。

最終的には後藤長官の産業線案が採用された。結果的には、その後、砂糖、木材、樟脳などを内地に輸出する際に大きな役割をはたすことになったのだから、後藤長官の先見の明がここでも生かされていることになる。

その後、「宜蘭線」「花東線」「屏東線」「平溪線」なども順次建設されることになった。

また、鉄道が整備され、物流経路が確立されたことに伴い、基隆港、高雄港の整備も行われ、結果、清朝時代には不可能であった、大型貨物船の着岸が可能となり、輸出量も一気に増える事になったのだよ。

何せ、清朝時代の鉄道は、品質が悪かったため、旅客運送にしか使えず、貨物輸送はほとんど機能されていなかったからね。」と言うと、再び集まった従業員達を見渡しながら賀田は「我々は商売人だから、商売人の視点からこの台湾鉄道についてもう少し分析してみようか」と言った。すると最年少の森が「あー、ここからは僕の一番苦手な数字の話だ。」とため息をつくと、一同は爆笑した。賀田も大声を出して笑いながら、「森君は算術が苦手なのか。しかし、商売人にとって算術は必要不可欠なものだから、しっかり勉強しなさい。」と促すと、森は「はい。算術をしっかり勉強して、何時の日か、社長の様な立派な人間になります。」と今度は元気よく、大きな声で返答すると、また一同は爆笑した。

「さて、清国時代の鉄道は、営業距離が基隆 - 新竹の 97 キロで、乗客数が 26.5 万人だった。台湾鉄道開通後は、営業距離は436.4 キロに延び、乗客数も 269.1万人になった。路線は 4 倍に成長し、輸送力は 10 倍ほど上がった。

旅客収入と貨物収入にも大きな変化があり、明治32年(1899 年)は、旅客収入は 21.4 万円、貨物収入は 12.8 万円だったが、明治41年(1908 年)台湾鉄道全線開通に伴い、同年の旅客収入は 123.2 万円、貨物収入は 146.8 万円となった。(ちなみに、昭和13年(1938 年)は、旅客収入は 1160.1 万円であり、貨物収入は 1894.6 万円)

清国時代、台湾は交通が不便だったため、産物の輸出は各地の国内小型港を経由し、輸出していた。しかし、縦貫線鉄道開通以来、基隆港と高雄港が結びつき、輸出が 2 つの国際港に集中。台湾鉄道が沿線の産品を吸収し、大型貨物船で、外国へ輸出するようになった。国内港の淡水港と国際港の基隆港の輸出量の変動を見ると、明治37年(1904 年)時点の茶の輸出量は淡水港が905 万斤、基隆からの輸

出量は 407 万斤だった。これらが明治39年(1906 年)には淡水は 643 万斤となり、基隆は 662.5 万斤に、さらに、明治41年(1908 年)の縦貫線鉄道開通の年には淡水は 75.5 万斤、基隆は 1159.5 万斤となったのだから、如何に鉄道が重要な働きをしたかがわかると思う。これも、産業線とすることを貫き通された後藤長官の大きなご功績だと私は思う。

また、鉄道の開通は、我々の食卓事情にも大きな変化をもたらしたのだ。

清国時代の台湾は、流れが急な川が多く、橋を作ることが出来なかった。そのため、雨季になったら各地は孤立しがちであった。

このような状況の下、各地の物資の流通が難しく、各地の物価の差は非常に大きく、そのために、経済が発達しなかった。

例えば、1894 年に台北の米価は 6.35 円であり、台南は 3 円。約2倍の価格差があった。鉄道開通後は、台北の米価は 8.59 円、台南は 8.75円とその差はほとんどなくなったのだよ。」と賀田が言うと、再び森が「鉄道のおかげで、僕は飯をいっぱい食べる事が出来るんだ。鉄道に感謝しないと。」と言うと、菊地が「森、これからは、台北駅の方を向いて、『いただきます』って言わないとな。」と言って、賀田を含め一同が大爆笑した。

 縦貫線鉄道工事の内容については、数多くの著名な方々が既に著書などで発表されておられるので、ここでは割愛させて頂きますが、台湾鉄道開通において、後藤新平の路線構想、人材起用は、鉄道を単なる運送手段として捉えるのではなく、台湾の近代化という目標達成のために必要な重要インフラとして捉え、中長期的な視点に立ち、単なる鉄道開通に留まらず、湾岸整備、駅前整備、物流経路の確保といった多方面から分析するというものであった。実際、鉄道が出来たことによって、各主要駅前にはホテルが出来、商業圏も確立されている。

医師出身でありながら、官僚としてのセンスも持ち合わせている後藤新平に敬服するばかりです。

長谷川謹介 《臺灣鐵道史》中卷(臺灣總督府鐵道部)

【参考文献】

長谷川博士伝編纂会 編 工学博士長谷川謹介傳 国立国会図書館

蔡正倫 台湾鉄道はいかに台湾経済に影響を与えてきたのか 台湾鉄道の歴史的・経済的文脈の考察から 立命館大学大学院先端総合学術研究科 論文Core Ethics Vol. 52009

永雄策郎 『植民地鉄道の世界経済的及世界政策的研究』

台湾総督府鉄道部編 『台湾鉄道史上・中・下』

若林正丈 『矢内原忠雄「帝国主義下の台湾」精読』

呉聡敏 『1895 年前後台湾的産出、工資率與物価』

沢和哉 『鉄道に生きた人々』

御厨貴 『時代の先覚者・後藤新平 1875 1929



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