台湾近代化のポラリス 西郷菊次郎抜擢
後藤新平の土匪に対する秘策を聞いた児玉源太郎は、しばらく考え込んだ後、切り出した。
「後藤さん、あなたの策を採用するとしてだ、具体的にはどの様な内容で進めていくおつもりかな?。そして何よりも、一体この大役を誰に託すおつもりかをお聞かせ願いたい。」
児玉の言う事はもっともである。特に、日本側に対し徹底抗戦を続ける土匪の大物、陳秋菊を相手に、日本側が提示する条件で帰順させるための交渉。そう簡単に行くものではないし、何よりも、命がけの交渉となる。誰でも良いという訳にはいかない。
しかし、後藤新平はこの難問に対しても既に答えを用意していた。後藤はゆっくりと話し出した。「まず、次のような条件を提示致します。」と言って、後藤はスーツの内ポケットから一枚の紙を取り出した。そして彼のトレードマークでもある眼鏡をかけ、紙に書かれている内容を読み上げた。その内容と言うのは、
今までの武力により土匪の討伐という方法を根本的に見直し、
① 土匪たちの過去の悪行に対しては不問とする。
② 投降すれば職を与える
③ 市民権も与える
④ 生活を保障する(金を与え、土地と住居を与える)
「以上の条件を考えております。そしてこの交渉役として私は、現在、宜蘭廰長を務める西郷菊次郎氏を推挙致します。」
児玉は驚いた顔をして「あの西郷菊次郎をか」と言った。
後藤は落ち着いた様子で「そうです。あの西郷菊次郎氏です。彼以外にこの大役を果たせる人物はいないと考えております。」と答えた。
後藤は匪賊に対する平民化政策を考えた際に、交渉役はだれが適任かを熟慮した。恵まれた環境で育ち、何の苦労も知らず、人の痛みも知らない官僚ではこの大役は務まらない。
統治される側の人間の気持ちを十分に理解出来き、なおかつ、こちら側の考えも理解出来る。そういった人物はいないかを徹底的に調査した。
その結果、浮かび上がったのが西郷菊次郎であった。では何故、西郷菊次郎だったのか。それを説明するためにはまず、彼の生い立ちから話す必要がある。
彼は、西郷隆盛の子として1861年、妾であった、奄美大島出身の愛加那との間に生まれた。(後に妹、菊草も誕生)
当時、西郷隆盛は島津久光の命により、奄美大島に遠島の身となっていた。奄美での生活が三年二か月を向かえた時、藩より帰藩するように命じられた。しかし当時薩摩藩は、属島とされていた奄美大島の女性を本国へ連れて帰ることは許さず、家族は離れ離れになるしかなかった。西郷隆盛は残された妻や子のために田畑を買い与えるしか術はなかった。
島に残された愛加那と菊次郎、菊草の三人の生活は、その後九年間も続いた。生活は決して楽ではなかったが、母親の愛情をいっぱいに受けて子供達は人間味あふれる子へと育っていった。
明治に入り、西郷隆盛は、正妻の「いと」に対し、菊次郎を引き取るように命じ、九歳となったいて菊次郎は父である西郷隆盛と再会を果たしたのであった。
その後、菊次郎は、父親の庇護のもと、郷中教育(薩摩藩の武士階級子弟の教育法で、明治維新で、武士階級は消滅したが、舎は存続した。) 、そして、アメリカ留学も許された。
さて、西郷隆盛といえば、明治10年、「明治政府の非を正す」と、政府軍に戦いを挑んだ西南の役で戦死したが、実は、この西南の役で菊次郎は、一兵卒として篠原国幹率いる一番大隊で、銃撃戦に加わっていた。時に、菊次郎17歳のときである。彼は、父である西郷隆盛の警護を自ら願い出たのであった。
銃撃戦では、政府軍の最新鋭のスナイルド銃にに対し、旧式銃しかなかった薩摩軍側は成す術もなく、次々と銃弾に倒れていった。菊次郎も敵の銃弾を受けた。すぐに、野戦病院へ運ばれた菊次郎であったが、傷口を見た医者は、「このままでは命が危ない」と判断し、膝下からの切断を決断した。戦時下での手術。麻酔薬など無い状態で、菊次郎は、右膝下を切断されたのであった。
療養中も父の戦況を気にしていた菊次郎であったが、ついに、本営である熊本城を後退しなければならない状況となった西郷隆盛であった。
当然、菊次郎も移動を迫られた。既に、松葉づえで歩けるようになっていた菊次郎ではあったが、長距離の移動は、西郷隆盛が付き添いを命じた、熊吉に背負われての移動となった。
宮崎まで逃げた西郷隆盛であったが、ここで彼は部隊の解散を宣言し、病人、怪我人は、政府軍に投降するように命じた。当然、その命は、菊次郎、熊吉にも与えられた。
「おまはんたちの命を大切にして家族ともども親に孝養を尽くせ」 この永訣の辞に、二人は嗚咽し、涙が滂沱として流れ落ちるの止めることが出来なかった(佐野幸夫著 西郷菊次郎より引用)
それから一か月が過ぎ、西郷隆盛は城山で戦死したのであった。
父、西郷隆盛亡き後、菊次郎は母、愛加那の待つ奄美大島へと戻った。
その後、菊次郎の元に、東京より書状が届いた。菊次郎の叔父である西郷従道(つぐみち)や同郷の大山巌たちからであった。父、西郷隆盛を死に追いやった償いの意味もあったのだろう。菊次郎に対し、「仕官の相談に乗るので、東京へ来るように」との内容であった。
東京へ行った菊次郎は、留学経験をかわれ、外務省用掛となり、後に、二度のアメリカ留学も果たしている。
そして彼は、日本が台湾を統治した1895年、台湾総督府参事官心得を命じられ、台湾へと渡った。
「児玉総督、西郷は、自分が生まれた奄美大島は、薩摩藩の武力によって制圧されたところであり、故に、統治される側の心は痛いほどよくわかっております。相手方の痛みがわかる人間にしかこの交渉は出来ません」と後藤は言い切った。
児玉は後藤の話を聞き、「わかった。本件は全て後藤さんに任せる事にする。早速、西郷に話の内容を告げ、行動に移してくれたまえ」と言い、「よろしく頼むよ」と後藤の肩を叩いた。
後藤は総督室を出ると直ぐに部下に対し「西郷菊次郎を呼んできてくれ」と告げ、民生局長室の椅子に座り、腕組みをしながら静かに目を閉じた。
「西郷菊次郎、君が本件の交渉役を快諾してくれることを私は信じている」と心の中でつぶやいた。
*本ブログでの会話部分は全て標準語で表現しております。当時は各々がお国言葉(方言)を使用していたと考えられますが、筆者は言語学者でないため、当時の正確なお国言葉を表現する事は出来ません。そのため、全てを標準語で表現しております。
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