台湾近代化のポラリス 徹底的に調査をする後藤

 「社長、後藤長官はいつ頃から台湾統治政策をお考えだったのでしょうか」

と賀田組従業員の菊地が賀田金三郎に尋ねた。これに対し賀田は「君たちは板垣退助自由党党首を知っているかね」と言いながら集まった賀田組の若手従業員達を見渡した。彼らは一様に大きくうなずいた。賀田は話を続けた。「あれはもう27年ほど前になる。4月に板垣党首が岐阜で遊説中の時だった。暴漢・相原尚褧に襲われ大けがを負われた。その際、板垣党首は襲われたあとに竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」とおっしゃった事でも有名なあの岐阜事件のことだ。この事件の際、板垣党首は当時医者をされていた後藤長官の診療を受けたのだが、その時僅か25歳だった後藤長官は「閣下、御本懐でございましょう」と述べ、療養後に後藤長官の政才を見抜いた板垣党首は「彼を政治家にできないのが残念だ」とおっしゃったそうだ。後藤長官は、医師でありながら、日本の国政を常に注視されていたことがよくわかる話だ。」と話している賀田自身も感心する様に大きくうなずいた。

実際、後藤新平は、廃藩置県後、胆沢県(胆沢県(いさわけん)は、 明治28月(18699月)に明治政府によって陸前国北部および陸中国南部(旧仙台藩・一関藩領)に設置された県。 管轄区域は現在の宮城県北部・岩手県南部に相当する。)の大参事であった安場保和に認められ、後の海軍大将・斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ、県庁に勤務。15歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三の下で門番兼雑用役になる。安場が岩倉使節団に随行後に福島県令となり、その縁で16歳で福島洋学校に入った。

後藤本人も最初から政治家を志していたとされるが、恩師・安場や岡田(阿川)光裕の勧めもあって、17歳で須賀川医学校に入学。同校では成績は優秀で、卒業後は山形県鶴岡の病院勤務が決まっていたが、安場が愛知県令を務めることになり、それについていくことにして愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)の医者となる。ここで彼は目覚ましく昇進して24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。

明治15年(1882年)2月、愛知県医学校での実績や才能を見出され、軍医の石黒忠悳に認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも官僚として病院・衛生に関する行政に従事することとなった。

賀田は話をさらに続けた。「後藤長官が内務省衛生局員時代に局次長として上司だった陸軍省医務局長兼大本営野戦衛生長官の石黒忠悳長官が、当時、陸軍次官兼軍務局長だった児玉源太郎総督に後藤長官を推薦された。明治28年(1895年)41日、日清戦争の帰還兵に対する検疫業務を行う臨時陸軍検疫部事務官長として官界に復帰された後藤長官は、広島・宇品港似島(似島検疫所)で検疫業務に従事されたのだが、その時の行政手腕の巧みさをご覧になった上司だった児玉総督の目にとまったそうだ。
また、この時期、後藤長官は既に台湾統治政策についてお考えで台湾で蔓延していた阿片中毒に関しての政策を内務大臣でもあった伊藤博文台湾事務局総裁の命により意見書を提出されている。この意見書の内容が凄かった。阿片を専売にして登録した中毒患者にのみ販売し、新たな中毒者の発生を防ぎ、50年ほどかけて阿片中毒者を根絶するというものだ。(後に漸減策と呼ばれる政策)この意見書を基に明治29年(1896年)2月3日に、漸減策で閣議決定された。ここに日本の台湾における阿片政策が定まったのだ。

さらに意見書には、具体的な施策や法律に至るまで書いてあったそうだ。例えば、専売によって上がった利益は台湾の衛生環境向上のための特定財源とするという構想。つまり、後藤長官は阿片の収益が「手軽に手に入る財源」として行政機構を毒することを懸念して、ちゃんと対策も考えておられた。しかし残念ながらこれは実施されなかった。

明治29年(1896年)4月14日、後藤長官39歳の時、台湾総督府衛生顧問に就任した後藤長官の指揮下で、日本は台湾に、生阿片を「吸う阿片」(阿片煙膏)に加工する工場を建設。近代的な大量生産ラインを組んだので、阿片の加工コストは下がり、台湾総督府にはかなりの金が入ることになったのだ。後藤長官も自分の意図しない結果になりこの点は悔いておられた。

この様に、凡人では思いつかないような策を打ち立て、実践される後藤長官だから、匪賊問題についてもあのような秘策を打ち出すことが出来たのだろう。」

「なるほど。後藤長官は常に物事を一方向から見るのではなく、様々な視点から観察され、調査され、その上で最も有効的な方法を打ち立てておられるのですね。」と菊地はえらく感心したように言った。

「医師でありながらも、官僚としての視点も持ち、更には、相手方の立場、意見にも耳を傾け、その上で答えを出されるのが後藤長官だ。実際、日本が阿片に対し漸減策を決定した際、台湾人の間では「我々に阿片は不可欠だ。阿片をよこせ」となり、血で血を洗う争いに発展した。後藤長官はこの点も十分に考慮した上での政策を打ち出されたのだと思う。

陳秋菊についても後藤長官は徹底的に調査を行われたと聞いている。だからこそ、交渉人として彼を選任されたのだ。」


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