台湾近代化のポラリス 後藤の提案
賀田金三郎が台北の賀田組事務所の2階で若手の従業員達に話を聞かせている時から11年前。台湾総督府の総督室では、明治31年2月26日に第四代台湾総督に任命された児玉源太郎総督とその児玉の強い要望で同年3月2日に台湾総督府民生局長に任命された後藤新平局長が真剣な表現で向き合っていた。
児玉は少し押し殺したような声で「樺山元総督は台湾平定を宣言したが、今の台湾の状況を見る限り平定とは程遠い状態だと思わないかね」と言って後藤を見た。後藤は「確かに」とだけ答えた。
児玉は「台湾民主国なるものは鎮圧したものの、その後も続く台湾国内での抗日活動は一向に収まる事が無い。二代目の桂太郎総督は、「台湾統治に関する意見書」(1896 年)のなかで,「台湾の地勢は独り南清に対するのみならず,更に南方諸島に羽翼を伸張する適宜の地位を占む」と述べ,台湾の地理的位置の重要性を指摘され南進の拠点として台湾統治政策をすすめたが、第二次松方内閣(松隈内閣)の陸相就任問題がこじれ、総督をわずか4カ月で辞任されてしまった。三代目の乃木希典総督は殖産興業などの具体策についてはよく理解していなかったため、積極的な内政整備をすることができなかった。次第に前任の曾根静夫民政局長ら配下の官吏との対立も激しくなり、台湾総督を1年4カ月で辞職された。「台湾を1億円でフランスに売り渡した方がいい」という発言もまずかった。樺山総督から乃木総督までの2年9カ月の間、台湾国内では土匪が勢力を伸ばし、わが軍もそれに対峙してきたが、一向に事態は良くなっていない。はっきり言って、台湾統治政策は何一つ動いていない状態だ。後藤さん、あなたの考えを聞かせてくれないか」
児玉が話している間、後藤は黙ってうなずきながら、険しい表情で話を聞いていた。そして後藤は、児玉の問いかけに対し少し考えた後、今度は非常に穏やかな表情で語りだした。
「総督、結論から先に申し上げます。武力を持って土匪達を制圧するという方法を続けている限り、台湾統治政策は失敗に終わります。一つの勢力を潰してもまた次の勢力が出てくる。これ以上、わが軍の兵士たちの血を流すことはやめるべきです。」
児玉は驚いた表情で、今度は少し声を張り上げて「ではどうするべきなのかね。このまま奴らを放置するというのか」と言った。
後藤は手を横に大きく振りながら、「そうではありません。力を使わず知恵を使うのです」
「知恵?」と児玉は不思議そうな表情で後藤を見た。そんな事は気にせず後藤は話を続けた。「彼らの権利を認めてやるのです。彼らの市民権を与え、必要ならば土地も当面の支度金も与えるのです。平民化政策に切り替えるべきです。そうすれば彼らは必ず帰順します。帰順する際には大々的に帰順式を執り行い、世間に公表するのです。」
児玉自身予想もしない後藤の提案に驚きを隠せなかった。しかし、児玉は「後藤新平という人物を台湾民生局長にと懇願したのは私だ。そして、民生局長といえば台湾の行政、司法を担当する民生局の長だ。その彼が考え抜いたこの秘策。ここは全てを彼に任せてみる事にするか」と心の中でつぶやいた。
そして児玉は後藤に対し「わかった。後藤さん、民生局長としてその手腕を発揮して頂きたい。具体的にはどの様な方法で土匪達を帰順させるおつもりなのか聞かせて欲しいのだが」と言うと後藤は「待ってました」とばかりに児玉に対しその方法を語りだした。
「土匪にはいくつかリーダー的な組織があります。その中でも彼らの間では「白馬将軍」と呼ばれている陳秋菊という者がおります。彼は明治29年(1896年)の元旦に六千にものぼる大軍でこの台北を包囲したことがあります。狙うはこの陳秋菊です。」
児玉は「流石、後藤新平。狙う相手も既に調べ上げているとは」と改めて後藤新平の力量に感心した。
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