台湾近代化のポラリス 台湾統治当初の台湾
私が台湾に来たのは、日本が台湾を統治する事になった1985年の7月だった。
統治が始まってまだ3か月ほどしか経っていない時だったが、そりゃ酷いものだった。
基隆の港について驚いた。港の周りは完全に荒れ果て、人がいない。台北に入っても同じだった。当初は、台湾総督府の近くの空き家に陣取り、毎日の様に総督府へ通ったものだった。とにかく、人がいないからまともな店もない。食事は、総督府の残飯を譲ってもらいながらの生活だった。
当時の台湾総督府は、清国が台湾で行政庁舎として使用していた巡撫衙門と布政使司衙門を総督府の庁舎として使用していた。
(1912年6月1日、森山松之助、長野宇平治(主に基本設計を担当)の両建築家によって新しいレンガ造りの台湾総督府の工事が着工、1919年6月30日に完工。戦後、台湾総統府として使用されることとなり、現在も使用されている)
日本が台湾領有後さらに南清に侵攻することを恐れた清国の湖広(ここう)総督張之洞らの策動もあり、その中で清国人であった当時の官僚と唐景崧や丘逢甲ら一部住民が協力し1895年5月23日に台湾民主国独立宣言を発表、24日には各国語に翻訳し駐台湾の各国領事館に通知してたのだ。そして25日には独立式典を実施し台湾民主国の成立を宣言した。
台湾民主国はフランスの支援を過大に期待して独立宣言したのだが、ロシア・ドイツ・フランス・イギリスのいずれもが三国干渉での日本の譲歩に既に満足しており、結果、諸外国からの独立承認を得ることができなかった。
独立式典では、唐景崧を総統に選出し、青地に黄虎の黄虎旗を国旗と定め、「永清」と改元までした。行政立法の機関を定め、紙幣、郵券を発行し、布告を島民に発し、国家体系を整えたのだが、当時台湾で第一の富豪であった林維源を国会議長に推戴するが、林はこれを拒否、100万両を新政府に献金したのち27日には廈門に逃亡。
5月29日、北白川宮能久親王が率いる日本の近衛師団が澳底(現在の新北市貢寮区)に上陸すると、傭兵を主体としていた民主国軍は総崩れとなり、北洋大臣の李鴻章も戦争の再発を恐れて早々に日本側の要求を受け入れ、6月2日に台湾初代総督の樺山資紀総督との間に台湾授受手続きを終了した。
6月3日には基隆を日本軍が占拠。これにより新政府は空中分解、翌4日には唐景崧は何と、老婆に変装し、公金を持ってドイツ商船のアーター (Arthur) 号に乗船して廈門に逃亡してしまう有様だった。
唐景崧が逃亡したことで、残った台湾人は6月下旬に台南で大将軍の劉永福を第二代台湾民主国総統に選任するが、劉永福が総統に就任して3カ月間、民主国と日本軍の間で戦闘が繰り返され、日清戦争を勝ち抜いた日本軍と、傭兵主体で数にも劣る台湾民主国軍では勝敗は戦わずともわかりきっていた。劉永福は台湾島南部で抵抗を続けたが10月下旬にはこれまた、中国に逃亡し、日本軍は台南、安平を陥落させたのだ。
これにより樺山総督は日本国に対し、「台湾平定」と報告したが、実はここからがまた大変だった。
一方、後藤長官は、日本が台湾を統治した明治28年(1895年)の時は38歳だった。
4月1日には臨時陸軍検疫部事務官長となられ、9月7日には明治25年(1892年)に就任された内務省衛生局長に再び就任され、中央衛生会幹事も兼任された。11月13日には、台湾における「阿片政策」に関し、内務大臣及び台湾事務局総裁であった伊藤博文総裁に意見書を提出されている。後藤長官はこの頃から、台湾統治における問題点をご専門の分野から分析されていたのだ。
明治29年(1896年)4月14日に台湾総督府衛生顧問嘱託となられ、6月13日に、二代目台湾総督の桂太郎総督赴任に伴い、伊藤博文総理・西郷從道海軍大臣等と共に東京を出発され、神戸から軍艦「吉野」に乗り初めて台湾に赴かれた。
6月20日に同じく軍艦「吉野」で南支(現在の華南)視察のために台湾を離れるまでの間、後藤長官自らがご自分の眼で当時の台湾統治のあらゆる問題点をご覧になった。
この事が、明治31年(1898年)に民政局長として台湾に赴任された後の様々な実行力につながっているのだ。
後藤長官を民政局長(後の民政長官)に任命された第四代台湾総督の児玉源太郎総督はその点も見込まれて任命されたと思う。
後藤新平
(国立国会図書館 近代日本人の肖像より)
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