台湾近代化のポラリス 我が人生を変えた星との出会い

時は明治42年(1909年)の夏。ここは台北市書院町1丁目2番戸。間口六間の2階建ての建物。ここが私の事務所である賀田組本店になる。

この2階に週1回、私の話を聞きたいと若手の従業員達が集まる。

決して強制的に集めたのではなく、彼らの希望で話をするようになった。今日も十数名の若手が集合していた。

いつもの様に窓際の中央に置かれた椅子に私が座るや否や、菊地という技師見習いの子が手を挙げた。

「早速だね菊地君」と私が笑って彼を見ると「社長、今日も是非、社長の人生に大きく影響を与えた方のお話を聞かせてください」と言った。

振り返って見ると、自分の人生には様々な方々との出会いがあり、その出会いによって人生が大きく変わったということもある。

私にとっては、山口県萩市の親から継いだ家業を潰してしまい、途方に暮れている時に東京行きを強く薦めてくれた烏田多門氏、東京に行ってから最初にお世話になり、入社後僅か半年で内外調達会社の松山支店長に抜擢してくださった藤田傳三郎氏、同社解散後、大倉組に移り、台湾総支配人として台湾にご縁をくださった大倉喜八郎氏。

今まではこれらの方々について話をしてきた。

今日は、私の人生を正に大きく変え、この台湾の地で私を大きく飛躍させてくださった大恩人でもある後藤新平民生長官殿の話をすることにした。

この方との出会いが無ければ、今の賀田組は存在せず、また、東台湾開拓、台湾銀行設立という大事業も成し得なかった。

私、賀田金三郎にとっては正に人生の方向性を指し示してくださった、北極星の様な存在の方である。

私は目を閉じ、「今日は我が人生を変えた、光り輝く星、北極星の様な存在のお方のお話をしよう」と語り始めた。

 

そのお方は名を後藤新平と言う。私より5か月早い安政4年(1857年)6月4日に、陸中国胆沢郡塩釜村(現奥州市水沢)吉小路に、留守家家臣後藤左伝治実崇様と利恵様の長男として誕生された。

明治28(1895)年、後藤長官38歳の時、4月1日に臨時陸軍検疫部事務官長に任ぜらた。これは高等官三等である。

9月7日、内務省衛生局長となられ、同時に中央衛生会幹事を兼務された。

11月13日には、台湾における阿片政策に関し、内務大臣及び台湾事務局の伊藤博文総裁に意見書提出され、さらに、12月7日に再び伊藤博文に「明治恤救基金」案を提出された。

明治29(1896)年、39歳の時、4月14日に台湾総督府衛生顧問嘱託となられ、6月13日桂新総督赴任につき伊藤総理・西郷海相等と共に東京出発。神戸から軍艦「吉野」に乗り初めて台湾に赴かれた。

私が後藤長官と初めてお会いしたのがこの時だったが、その時は、あまりお話しする機会もなく、ごあいさつ程度で終わった。

その後、長官は6月20日に軍艦「吉野」に乗り基隆出発され、南支視察の途に上られた。

そして、明治31(1898)年3月2日、長官41歳の時に、児玉源太郎総督の新任に伴い、児玉総督より日清戦争終了後の防疫事務で才能を見いだした後藤長官を台湾総督府民政局長(後に民政長官に改称)に任命された。児玉総督は後藤長官に全面的な信頼をよせて統治を委任されていた。

 

「では社長は、その統治政策に大きく関りを持たれるようになったのですね」と菊地が言った。

私は「関りを持つという言い方は正しくはないなあ。後藤長官が私をお誘いくださり、導いてくださったと言う方が正しい」と答えた。

(つづく)

                  賀田金三郎

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