台湾近代化のポラリス 台湾上下水道物語3
「台湾水道事業の進め方について、あなたのお考えをお聞かせくださるかな」と当時の民生局長であった水野遵はバートンに尋ねた。
水野の問いかけにバートンはまず、台北、淡水、基隆、台中の市街地の衛生状況調査を行い、基本設計を行う旨を伝えた。その上で、「日本のやり方をそのまま台湾の事業に導入する事が可能か否かを判断し、不可能と判断した場合、台湾と同じ亜熱帯気候地帯での水道事業について視察を行い、台湾にあった形での事業を進めていきたい」と伝えた。
水野局長にしてみれば、基本設計まで出来るのであれば、その設計で計画を直ぐにでも実行したい考えをバートンに伝えたが、バートンは「その計画には無理がある」と一歩も引きさがらなかった。常に、日本のやり方を正解とするのではなく、現地にあらゆる状況に応じて、臨機応変に対応し、時には日本のやり方に沿わないやり方であっても、それが現地に適合するならば、形を変えることも重要であるという考えがバートンの認識であった。
水野はバートンが内地の内務省衛生局長の後藤新平の推薦で台湾に来たことを知っており、無下に、バートンの提案を拒否する事も出来ず、渋々、バートンの方針で進める事を承諾した。
バートンは助手の浜野弥四郎を伴って、台北、淡水、基隆、台中の市街地の衛生状況調査を実施、基本設計を行い、1か月後に報告書を民生局に提出した。但し、あくまでもこの基本設計は日本の常識で作成されたものであるとし、明治29年(1896年)10月に、浜野を伴って、香港、上海、シンガポールの地方の衛生施設情況の視察へと向かった。
その結果、シンガポール水道施設の先例を採用する事が決まり、それが台北水道の基本方針になった。
明治31年(1989年)4月16日付の 「バル トン意見書一 」は視察 後提出した報告書 である。報告書の「台北城内下水及水槽ノ現状二付意見書」には、以下の様に記されている。
「先年小官英領新加坡二出張シ見聞シ得サル処、下水溝底円形ノ式ニ就テ当時提出レシ意見ニ基キ、今回改築セラレタル台北城内ニ於ル下水溝ヲ観ルニ、従来情況トハ全リ其趣ヲ異ニシ、疎通宜シキヲ得清潔
モ亦臻レリト雖モ、新加坡ニ於ケルモノニ比エル時ハ、尚未タ遠ク及バサル処アルヲ免 レス」と書かれている。
東京大学大学院
黄俊銘氏は、土木史研究 第10号1990年6月 自由投稿論文「台湾におけるバ ルトンの水道事業について」でバートンの水道事業の内容は以下の様に整理されると記している。
(1) 各地の衛生情況の調査報告
(2) 地形及び水流の調査
(3) 水源地の探査、水量の測量、水質の試験 、水源地の選定
(4) 雨量 、河川水位の測量と統計
(5) 市街地及び水源地から市街地まで地形の測量
(6) 上下水道系統の計画
(7) 水道施設の設計(材
料、寸法の設計、機械の選定な ど)
(8) 東洋各植民地水道施設の考察活動
明治30年、バートンは基隆へ水道を引くための水源地を決定し、同年3月、まず基隆の給水設備工事の設計を行った。
さらに、同年4月には、台湾の衛生情況に基づき、水道施設の優先順序に関する意見を以下のように総督府に陳述した。
(1) 基隆上下水工事 ノ調査設計
(2) 台北市街下水工事調査設計
(3) 台南市上下水 ノ調査設計其 ノ他台南県下重ナル市街ニ於ケル上下水工事
ノ調査設計
(4) 膨湖島上下水工事調査設計
(5) 台中街其ノ他台中県下ノ重ナル市街ニ於ケル上下水工事調査設計
バートンと浜野は、同年7月から、膨湖島媽宮城、台南、安平、鳳山、打狗、恆春、嘉義等の衛生状況調査を行った。
バートンはこの現地での衛生状況調査を非常に大切にしており、自らが調査に出向き、自分の眼ですべてを確認した上で、計画を作成するというスタイルを貫き通していた。
このやり方は時間がかかるため、水野局長やその後を引き継いだ曽根静夫局長としては歯がゆく思えた。
その事はバートンにも感じていたが、一切、気にすることなく、上記の計画の通り、各市街の水道工事の調査設計を着々と進めていった。
そして、明治31年3月2日。バートンが待ちに待っていた人物が民生局長として台湾にやって来た。それが後藤新平であった。
久しぶりに対面した二人は再会を喜び合った。
後藤はバートンと固い握手を交わした後、「バートン先生のご活躍は内地にも届いておりました。バートン先生のおかげで、台湾の上下水道整備計画は順調に進んでおります」とバートンのそれまでの功績を称えた。これに対しバートンは、「後藤局長が来てくださり、私は今まで以上に頑張るという気持ちになりました。やっと私の理解者が来てくれたと、心から嬉しく思います。」と言った。
その言葉通り、バートンは今まで以上に積極的に活動を行い、台北の上下水道工事の建設に取り組んだ。
バートンは、台北市の水源を探すために淡水河上流を視察し、新店の上流付近に水源の適地を発見した。さらに、その水源の衛生を確保するために、上流に遡り水流を探査した。
そんな時だった。バートンの体調に異変が生じた。何時ものように山中を探索している時、バートンはその場に倒れ込んだ。驚いた浜野が駆け寄ると、バートンの息遣いは荒く、額に手をやると熱があった。それも高熱の様だった。浜野は同行していた他の調査隊と共に、バートンを簡易タンカーに乗せ、下山した。
バートンは台北の病院で応急処置を受けた。そこへ「バートン倒れる」の一方を受けた後藤が病院に駆け付けた。
医師でもある後藤は、バートンの様子を見て彼の病名がマラリアであると判った。
後藤は直ぐに、バートンを内地の本郷の大学病院(東京帝国大学病院)へ移送する様に手配した。
明治32年8月5日、後藤の元に一通の電文が届いた。そこには「バートン博士死去」と書かれてあった。享年46歳だった。
バートンに死は後藤にとっては非常にショックが大きかった。
当時はまだ、マラリアに対する特効薬もなく、治療方法も無かった。水源は山奥にあり、マラリアに感染する危険性は非常に高い場所であることは、バートンも後藤も認識していた。それ故に、後藤はその事を一番心配していたのだが、その心配が最悪の形で的中してしまったのである。「バートン先生を台湾総督府へ推挙したのは自分。もしも彼が工科大学退職後、本国へ戻っていたら、こんなに若くして命を落とすことも無かったのではないか。」と悔やんだ。
実はバートンは在任中、台湾の上下水道整備計画のみならず、台湾における最適な家屋のかたちを考案していた。明治31年(1989年)5月10日、バートンは後藤新平に書簡を出し、自らが考える台湾における最適な家屋のかたちについて示している。内容は以下の様なものであった。
「豫而閣下ヨリ衛生上ノ処見陳述スノキ上月御高話相受処先年前局長ニ宛提出致候
意見ノ中ニ就而本島ノ気候風土ニ準拠シテ衛生上最モ適当ナル模範家屋ノ設計ノ件ハ偏二閣下ノ御考慮ヲ煩度儀ニ御座候
惟フニ茲ニ医学者建築学者及技師等ノ諸貢シ以テ委員ニ撰定シ而シテ其調査設計ニ従事セシメ候儀ハ最モ必要ナル事ト相信。
候野生固ヨリ技術的識能ニ乏シウハ候得共命ニ依リテハ亦其委員タル
ニ吝ナラザル者ニ御座候
今従来ノ支那風家屋
ヲ観ルニ利益ナル点モ不勘殊ニ軒下側道ノ如キハ縦令光線ノ注射空気ノ流通等ニハ宜シカラス候
得共時ニ大雨ニ際シ或ハ炎天
ニ於テハ頗ル其防禦ノ得タルモノト存候乍去深ク衛生的ニ査察致候ヘハ談家屋ハ甚ダ賛ハザル処数多ニ御座候
就テハ右模範家屋ノ建築ニ向テハ日本支那両風ヲ折衷シ且特ニ欧州
ノ風ヲ以テ補 ト尚日本的建築ノ?ヲ添ヘン事ヲ期望此事ニ御座候」
実はバートンは後藤の前任者であった曽根静夫民生局長にも彼の考えをまとめたものを提出しているが、却下されている。
曽根にしてみれば、バートンはあくまでも上下水道整備のために招聘したのだから、それに専念し、さっさと計画を前に進めてくれという考えだったのだろう。
しかし、後藤は違った。バートンのこの台湾に最適な家屋の形は、今、バートンが取り組んでいる上下水道整備事業にも大きく関わってくることを理解していた。さらには、台湾で当時流行していたマラリア予防にも繋がることをわかっていた。
従来の台湾家屋の長所である
「軒下側道 」、これは現在の台湾でもそのまま生きている。今は、スコール除けとして受け止められている軒下側道だが、台湾における軒下側道の意味は、単にそれだけではない事がよくわかる。
また、バートンはマラリアを予防するために家は二階建てとし、二階に寝室を設けることを提唱した。後藤はバートンの考えを採用し、その後、この考えに基づいていくつかの官舎が建設された。それは、五、六尺
ぐらいまで床を高くした高床式のものであることが、營繕課の技師尾辻がのちに証言している。
この様に、台湾の近代化を進めていく上で重要な上下水道整備計画に必要不可欠であったバートン。そのバートンの死は後藤にとってはあまりにも大きな痛手であり、悲しみであったことは想像できる。
しかし、悲しいかな、何時までも悲しんでいる様な状況でない事は後藤が一番よくわかっていた。後藤はバートンの助手であった浜野を局長室へ呼び、「バートン先生が居なくなったことは痛恨の極みであるが、だからと言って、台湾の上下水道事業を止める事は出来ない。一国の猶予も許されない状況にある。
バートン先生の遺志を継いで、浜野さん、あなたがこの事業を受け継いで欲しい。」と頭を下げた。
浜野は後藤ほどの身分の者が、自分の様な助手に頭を下げるとは思っておらず、慌てて「後藤閣下、頭をお上げください。」と言った。
そして浜野は「バートン先生が志半ばでお亡くなりになった事、一番悔しく思っておられるのはバートン先生ご自身だと思います。先生の遺志を私共が受け継ぎ、必ずしや、この台湾の上下水道整備事業、完成させて見せます。」と言い、後藤の目をしっかりと見た。後藤は浜野に対し、「何卒よろしくお願いする。台湾総督府としても、この後藤新平としても、全面的に支援はさせてもらう」と言い、再び浜野の手を握った。
【参考文献】
稲葉紀久雄 『バルトン先生、明治の日本を駆ける!
近代化に献身したスコットランド人の物語』
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水道産業新聞社
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外交とビジョン』
臺灣水道研究会. 1941.『臺灣水道誌』台湾総督府内務局
自來水事業処台北自来水事業処. 2008.『市定古蹟「草山水道系統」建築物及設施修繕維護調査規劃報告書』第二章
伊藤潔 『台湾』
陳育貞,呉亭樺.2018.「台灣自來水産業文化的多元價值」臺灣建築史研究会
喜安幸夫 『台湾島抗日秘史―日清・日露戦間の隠された動乱』
劉俐伶 「臺灣日治時期水道設施與建築之研究」
國立成功大學建築學系
陳皇志 「臺北水道建設與近代殖民都市發展(1895-1945)」國立臺灣師範大學臺灣史研究所
黄俊銘 「台湾におけるバルトンの水道事業について」『土木史研究
第 10 号』
吳世紀.2017.「臺灣現代化自來水建設之開拓者 都市的醫師-濱野彌四郎」『自來水會刊第
36 卷第4 期』中華民國自來水協會[中華民国水道協会]
越沢明 「台北の都市計画、1895~1945 年―日本統治期台湾の都市計画」日本土木史研究発表会論文集
呉文星.1993.「東京帝国大学の台湾に於ける学術調査と台湾総督府の植民地政策について」『東京大学史紀要』東京大学史史料室
黄俊銘 『台湾におけるバルトンの水道事業について』 東京大学土木史研究
第10号1990年6月
自由投稿論文
『後藤新平文書
』国会図書館藏
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