台湾近代化のポラリス 台湾上下水道物語2

台北市書院町の賀田組事務所の2階では恒例となった賀田組社長の賀田金三郎が若手従業員達の要望によって台湾統治時代の台湾の様子について話をするという集まりが今日も行われていた。

ここ数日は、賀田が崇拝する人物の一人、後藤新平の台湾における様々な実績を話している。今回の話題は台湾の上下水道についてだった。

「君たちが驚くのも無理はないだろう。台湾の上下水道事業に外国の方が関わっているとは思わなかったはずだからね。」と賀田が言うと、集まった一同は大きくうなずいた。

「ウィリアム・キニンモンド・バートン(William Kinninmond Burton)先生と後藤新平長官とのご関係だが、まずは、後藤長官のご経歴から少し話をしよう。以前にも話したので、話が重複するかも知れないが聞いて欲しい」と言うと賀田は全員を見渡しながらまず、「人様とのご縁と言うのは大切なものだ、ただ、そのご縁にも時には悲しくもあり悔しくある裏切りというものもある。」と言った。

そして、「後藤長官が愛知医学校長兼愛知病院長時代に、後藤長官を衛生局に迎えたのは、初代衛生局長で、「衛生」の語源であるHygieneを「衛生」と訳した事でも有名な長與專齋氏だった。

明治16年(1883年)に内務大臣(当時は内務卿と呼ばれていた)となった山縣有朋大臣とは肌が合わず、衛生局の業務に支障を来したすようになり、当時、軍医本部次長だった石黒忠悳子爵が兼務で衛生局次長に迎えられたのだが、衛生局内では長與局長に劣らない力を持たれるようになった。明治25年(1892年)、衛生行政の後継者として後藤長官を衛生局長に据えられた。そんな時だった。あの相馬事件 *1が起きたのは。」

と言うと、菊地が「相馬事件って?」と言って賀田の方を見た。賀田は「そうか。君たちの年代になると相馬事件を知らないか。簡単に説明してあげよう。簡単にだよ。」と言って相馬事件について説明をした。

この相馬事件の際、後藤新平は、相馬誠胤奪還の支援者であり、自宅に相馬誠胤と錦織剛清の二人を匿い、誠胤の診察もした。

「相馬事件後、後見役らが錦織剛清を誣告罪で訴え、後藤長官も共謀者として訴えられ半年間収監された。結局無罪で放免されたのだが、これが原因で後藤長官は、失脚されたのだが、ここで、長與專齋氏は後藤長官を見捨てた。一方、石黒忠悳子爵は後藤長官を見捨てることはなく、その後ろ盾となり、日清戦争の検疫事業を後藤長官に担当させることを当時、陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎総督に提案され、検疫事業の成果により後藤長官は内務省衛生局長に復職。また児玉総督に認められたことが、児玉総督の下で後藤長官が台湾総督府民政長官に起用されるきっかけとなったのだよ。

ちなみに石黒子爵とは私もお会いしたことがある。石黒子爵は、大倉喜八郎氏とは古くから交遊がおありになり、大倉商業学校(現・東京経済大学)の設立に参加し、理事兼督長(現在の理事長兼校長)をつとめられたお方だ。」と賀田が少し懐かしそうに話をしていると最年少の森が「全然バートン先生が登場しないなあ」とつぶやいた。(読者の皆さんの想いを森が代弁したのかも)

賀田は少し焦った様子で「あー、すまない。すまない。話が脱線したな。実は、後藤長官が内務省衛生局に入局されたあと、日本政府が工科大学の教授として招聘した衛生工学の技師ウィリアム・キニンモンド・バートン先生は就任当初から後藤長官とは非常に馬が合い、親しい関係だったそうだ。後藤長官の人格・識見などを見抜いたバートン先生が、明治23年(1890年)に後藤長官のドイツ留学を後押しされたのだよ。後藤長官は、帰国後の明治25年(1892年)に衛生局長に昇進された。

後藤長官の推薦もあり、バートン先生は、明治22年(1889年)11月に、内務省衛生局雇工師も兼務されるようになり、後藤長官の幕僚となられた。

バートン先生は工科大学で我が国最初の「衛生工学」に関する講義を行われた。当時、公衆衛生や上下水道を体系的に学べるのはこれが唯一のものだったのだよ。「我が国衛生工学の始祖」と言える。

内務省衛生局雇工師として、当時の後藤新平衛生局長とは絶妙のコンビで、日本の衛生行政に携われた。ることになる。さらに、全国28か所の都市を巡り、上下水道事業に関する指導、助言をされた。そのやり方は、その地の地勢を確かめ、水道水源についても自らの足で実際に現地を踏査したうえで結論を出すというやり方。このやり方、誰かに似ていないか」と賀田が問いかけると森は「後藤長官の生物学の原則に似ています」と大きな声で答えた。賀田は満面の笑みを浮かべながら森に対し「そう。その通りだ。」と言った。そして話を続けた。

「バートン先生は、日本における 「日本近代水道設の功労者 」であり「日本衛生工学の恩人 」と言える。

しかし、バートン先生は、工科大学の教職契約を二回継続したあと、5月に解雇されたのだが、丁度その頃、後藤長官は、三代目台湾総督として就任された桂総督や伊藤博文閣下と共に、台湾視察を終えられた直後だった。

台湾の衛生情況を視察した結果、台湾の開発上、もっとも重要な課題 の一つは全島の衛生施設整備であること。特に、上下水道を普及を急ぐ必要ありと訴えられ、同時に、後藤長官はバートン先生がこの事業を実行するに当って最適者として推薦されたのだよ。

バートン先生も後藤長官の推薦を喜んで引き受けられ、近代的衛生施設の完備が全くなかった台湾の水道事業に挑戦された。

 

明治29年(1896年)85日 に渡台されたバートン先生は、台湾総督府の顧問技師職に就任された。その際、バートン先生がご自身の助手としてお連れになったのが浜野弥四郎先生だった。 就任早々、お二人は直ぐに衛生状況調査に着手された。」

とここまで話した賀田は、再び湯呑に手を伸ばした。

湯呑のお茶は少なくなっており、その事に気づいた菊地が「社長、新しいお茶をお持ちします。」と言って、席を立ち、1階へと下りていった。

賀田は湯呑に残った少しのお茶を飲み、空になった湯呑を見つめながら言った。

「人の痛みがわかる人間とは、自分自身が傷ついたからこそわかるものだ。受けた恩義は忘れず、その恩義を次へと引き継ぐ。人として決して忘れてはいけない事だ。」とつぶやいた。

 

*注:日本ではウィリアム・キニンモンド・バートンをバルトンとも呼ばれているが、本稿ではバートンで統一させて頂きます。


*1 相馬事件

旧中村藩主、相馬誠胤の統合失調症(推定)の症状が悪化したため、1879年に家族が宮内省に自宅監禁を申し入れ、以後自宅で監禁、後に癲狂院(現在の精神科病院に相当)へ入院させた。

1883年、旧藩士の錦織剛清が主君の病状に疑いを持ち、家督相続を狙った異母弟家族による不当監禁であるとして家令・志賀直道(志賀直哉の祖父)ら相馬家の家宰たちを告発したことから事件が表面化した。告発を行った錦織に対し、世間からは忠義者として同情が集まった。当時は精神病の診断も未熟であり、高名な大学教授らによる精神病の診断がまちまちの結果となった。正常との判断を下す医師もおり、混乱の度合いが増すこととなった。

1887年、相馬誠胤が入院していた東京府癲狂院に錦織が侵入、誠胤の身柄の奪取に一旦は成功するものの、1週間で逮捕された。錦織は、家宅侵入罪に問われ禁錮処分を受けるとともに、偏執的な行動が批判を受ける。1892年、誠胤が病死した。錦織はこれを毒殺によるものとして、翌1893年に再び相馬家の関係者を告訴し、遺体を発掘して毒殺説を裏付けようとした。しかし最終的に、死因が毒殺とは判定できなかった。

1895年、錦織が相馬家側より誣告罪で訴えられ、後に有罪が確定し、事件は収まりを見せた。

 

【参考文献】

駄場裕司 『後藤新平をめぐる権力構造の研究』

手塚 竜 『日本の近代水道とその創設の功労者バートンとパーマ』英学史の周辺

武内博 『わが国衛生工学の恩人W .K.パルトンのこと』 公衆衛生

民政部土木局1918『 台 湾 水 道 誌 』 台湾総督府民政部土木局,

村松貞次郎1976『お雇い外国人 (建 築 土 木) ,

『後藤新平文 』 国会図書館藏Hicro Film

バルトンの調査報告書 「バルトン技師衛生工事調査報告書1896. 9.4

浦島万一1912『台湾一覧 』 , 台湾日日新報社

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