台湾近代化のポラリス 賀田金三郎って誰?

ところで、読者の皆さんは賀田金三郎という人物をご存じだろうか。彼の名前は知っているという人は、台湾好きの中でも、台湾の歴史に興味のある人だろう。彼の偉業も含めて良く知っていると言う人は、歴史オタクの中でも、相当の変わり者かも知れない。実際、彼の出身地である山口県萩市でも彼の事を知る人は数少ない。
実は、その変わり者の筆頭と自負しているのが、筆者の私自身だ。

私は、賀田金三郎について約15年間、研究を続けている。相当の変わり者である。

賀田金三郎は、安政4916/グレゴリオ暦 1857112 に、山口県萩市米屋町の坂田屋の長男として生まれた。家業を継いだ賀田は、僅か3年ほどで家業を傾かせてしまった。生まれつきの女々しいことが大嫌いな性格と、猪突猛進が災いしたのだ。当時は、酒の席でも自身も豪快に酒を飲み、招いた客人にも惜しみもなく酒を振舞っていたが、家業が傾いた後は、生涯、一滴の酒も口にしなかった。

事業の失敗で、心身ともに疲弊していた賀田だが、友人の烏田多門氏の強い勧めで上京する事になり、弟の富次郎が勤めていた藤田組に就職することになった。その後、大倉組と藤田組が共同出資を行い、陸海軍の軍需品用達を主業務とする内外用達会社(株式会社)を設立した。資本金は500万円の大企業であった。

内外用達会社勤務になった賀田は、萩での失敗を忘れるために我武者羅に働いた。その働きぶりはいつしか上層部の耳にも入る様になった。そして、金三郎は、入社してわずか6か月後、伊予松山出張所主任(所長)として異例の昇格となった。当時の松山は他の地域に比べ、最も運営が難しい地域と言われており、藤田組、大倉組の従来の主任は皆、2年で根を上げ交代となっていた。その地への赴任を賀田に命じた重役たちは、「賀田金三郎ならばやれる」という考えの元での決定であった。

賀田はその重役たちの期待に見事に応え、松山で8年間主任(所長)を続け、それまで誰も達成来なかった業績を残したのである。

この松山出張所赴任にあたって、次のような逸話が残されている。

松山出張所主任として、それまでの金三郎の月給を20円から25円に昇給することが決まった。普通ならば入社半年での主任への昇格にあわせ、5円の昇給ともなれば、だれでも喜んでそれに甘んじ黙って松山へ赴くものである。しかし、賀田は違った。

「自分と同格者の月給が30円なのに、何故、自分だけが25円なのか。5円の差を受け入れる事は出来ない。今回の辞令は辞退する」と言った。

重役が自分の能力を認め、主任に昇格を命じたのならば、もっと自分を信じて欲しい。そして、その証として、同格者と同じだけの月給を支払うべきであるというのが彼の考えであった。一見この主張は賀田の我儘にも、また、金へのこだわりにも取られるかもしれないがそうではない。賀田の自信と職位、職責、職務への自覚と覚悟の現れでもあり、また、上層部への「人を正しく評価せよ」という戒めでもあった。

その証拠に、賀田の要求を聞いた重役たちは、あっさりと要求を受け入れ、月給30円に訂正をしたのである。当然、賀田自身も改めて、松山出張所主任(所長)としての自覚と責任の重さを認識したに違いない。

賀田は上京した際に、大勢の人達と触れ合い、「もっと資産を増やさなければならない」と痛感していた。これは、単に自分が贅沢したいという成金的な考えから来るものではなく、資産を増やすことで、より自分自身が目指す事業が達成できると考えたからである。

そこで、賀田は密かに鉱山やその他の事業に投資をしていた。また、一攫千金を夢見て相場にも手を出していた。この時の賀田には焦りがあり、資産を増やすためにひたすら走りに走り続けていたのである。

「萩での失敗を繰り返さないために、資産は必要である。しかし、今の自分はまだまだ力不足。何としてでも資産を増やし、もっともっと世の役に立てる事業がしたい」という気持ちが強すぎたのである。しかし、世の中、決してそう甘くはなかった。

米価大暴落で、米相場に手を出していた賀田は大損をした。ここで賀田はある一つの考えを悟った。「お金を儲けようとして金の亡者になると必ず落とし穴がある。亡者故にその落とし穴が見えなくなっている。常に、何故、お金が必要なのかということを明確にし、さらには、そのお金が誰のお役に立てるお金なのか考える事を忘れてはいけない。自分のために必要なお金は、生活が出来るだけで十分である。お国のお役に立つためのお金を貯める事を忘れてはいけない」と。

その後賀田は米相場を続けたが、その目的は「日本の農家(農業)を守ることが、お国の発展につながる」という確固たる信念のもと、米価格の安定のために、すなわち、農家の安定のために、米相場を続けた。

この賀田の行動に対し、時には、「悪徳相場師」と揶揄されることもあったが、賀田は一切気にせず、自分の信念を貫いた。

内外調達会社が解散となり、賀田は大倉組に移った。大倉喜八郎が賀田の能力を大きく評価していたからである。賀田は、喜八郎の期待を裏切ることなく、実績を上げていき、遂に、日清戦争後、日本が台湾を統治すると、その3か月後には台湾へ入り、大倉組台湾総支配人として、総督府御用商人となった。

ここで賀田は人生最大の出会いをする。それが後藤新平との出会いであった。

賀田は、後藤の人並外れた先見の明に惹かれ、後藤の台湾統治政策の実現のためにあらゆる面から協力をした。

今後記載していく台湾銀行設立と東台湾開拓及び台湾史上初の日本人移民村の開村など、後藤のために、ひたすら走り続ける台湾時代を送ることになる。

後藤新平自身も賀田の事は非常に高く評価しており、賀田の葬儀の際に、後藤は以下のような弔辞を述べている。


『賀田君と私は、台湾領有の当時、かの地官遊の際に相識つて以来、交情厚きを加へ来つたのであります。(中略)台湾に於ける賀田君の事業の功績を挙げて見れば、未開不便の地に率先して諸種の事業を興し、台政の施設を幇助ほうじょするに力を致せれ、中にも、驛傳社を設けられたことは、最も著しきものの一つであります。其組織並びに其実行上に致されたる絶倫なる精力は、特得の天才にして、尋常実業家中稀に見るところであります。殊に台東蕃界の開拓に一身を委ねられたるは、尋常人の到底為し能はざる所のもので、其膽力勇気は、台湾当時の事情を知るものの等しく驚嘆するところであります。

何しろ世人は噂を聞いてさへ、恐ろしき感を為す蕃界に入るに、其夫人を同伴せられた一事に見るも、其人物の凡ならざるを(うかが)ふことが出来ると思ひます。

賀田夫人が内助の秀逸なるものありて能く困苦を共にし、遂に成業を遂げしめしは、其賢貞の素質の然らしむる所でもありませうが、夫人をして鬼の棲むとも思はれし蕃界に於いて、事業を共にせしむるまで大勇猛心を起さしめたるものは、賀田君の偉大なる感化力の然らしむるところであります。

賀田君の功績として挙ぐべきものは多々ありますが、其多くは(あらわ)はれていなひのであります。是は披露宣伝の足らなかった為と思ひますが、併し其披露の足らぬ所に、妙味があると存じます。

賀田君は真の実業家で、企業に無限の興味を有し、功績と名誉とを他人に譲り、自ら社長とか重役とかの名利に貧らず、只実際避くべからざる場合に、之が職に就くこととしていたことは、事実の証明するところであります。(以下省略)』


賀田は台湾のみならず朝鮮、日本国内のあらゆる事業に参画しており、その中には、現在までも続く会社も数多く存在する。賀田が設立に関わった会社の一部を紹介すると、

台湾銀行(現存)、台湾貯蓄銀行、新高銀行(台貯と新高が合併し、第一銀行として現存)、朝鮮電気工業、臺陽鑛業、原町紡織、臺灣驛傳社(中華郵政の原型)、賀田組、南洋拓殖工業、天津隆和、東洋硫黄、旭電気、日本皮革(ニッピと社名変更し現存)、大阪製氷(後のニチレイ)、伊豫鉄道(現存)、東京急行電鉄(東急として現存。この際、渋沢栄一と交流)、武蔵電気鉄道、日支食糧、朝鮮製莚、朝鮮生糸、臺灣製糖(現存)、太平洋炭鑛、臺灣日日新報、拓殖新報、日本製靴、臺東開拓、臺東製糖、九州炭鑛汽船、内外ビルデング、朝鮮精米、朝鮮勤農、満州商業銀行、日本活動写真(日活として現存)、佐藤製衡所、瀬戸内海横断電力、山口電灯、広島電灯(山口・広島電灯が合併し、現在の中国電力)、日本石材工業、萩製糸、朝鮮皮革等々

*注:現存している会社に関しては筆者が把握している部分であり、その他の会社に関しては未調査

賀田は事業のみならず、教育、文化、スポーツ等々にも多額の寄付を行っており、例えば、山口県萩市にある松陰神社の初代記念館建設や萩市の教育基本金、高校卒業後の貧しい学生に対する学業支援金、能高野球団への寄付、台北曹洞宗別院建設費、台北金毘羅神社建設費、児玉後藤記念館建設費等々、数え上げたらキリがないほどの寄付を行っている。

正に、賀田の哲学である「人は生まれて来たからには死ぬまでお国のために働く義務がある」「台湾で得た利益は台湾に還元する」「お国のため、人様のためにお金を有効に活用する」という考えがそのまま実践されている様に思える。

後藤新平は賀田金三郎のこの様な生き方、考え方にも大いに共感していたものと思われる。

今回の「近代化のポラリス」では、この賀田金三郎の視点から、賀田が崇拝していた後藤新平を描いている。そのために、後藤の実績を美化している部分もあるかも知れないが、実績というものは、人それぞれに受け止め方があるだろうし、感じ方も違うと思うので、その点はご理解、ご了承頂きたい。

では、引き続き、「近代化のポラリス」をお楽しみください。

明日は、後藤新平の台湾での阿片政策について書きたいと思っています。

賀田金三郎と妻のミチ(道子)
賀田金三郎研究所所蔵(無断複写を禁ずる)

【参考文献】
播磨憲治 台湾を近代化に導いた人物 賀田金三郎


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