台湾近代化のポラリス 驛傳社(駅伝社)

 日はとっくに暮れ、賀田組事務所の前の書院通りも人通りがまばらになっていた。

辺りからは夕食の良い香りが漂ってきている。時計を見た賀田金三郎は、「もうこんな時間かあ。時間の経つのは早いなあ。今日はそろそろ終わりにするか。」と賀田の話を聞きたくて集まっていた賀田組若手従業員達の方を見た。すると従業員の菊地が「社長、今日の最後のお話として、是非、驛傳社について教えて頂けますか。お願いします。」と言った。

賀田は「私は良いが、君たちはお腹空いていないのかね?」と笑いながら尋ねると一同は「お話が聞きたいです。」と口々に返答した。

賀田は「では、今日の最後の話として驛傳社誕生からの話をしよう。」と改めて席に座った。

「私が大倉組台北総支配人に赴任した翌年の明治29年(1896年)、台湾総督府はそれまでの軍政統治から民政統治へと移行したが、先にも述べた様に、各地には土匪が出没していた。

一方、行政に目を向けると、郵便業務は草創期で甚だ幼稚なものであった。さらに、金融ネットワークもなく、同年に台北に日本銀行台北出張所が出来たばかりで、台湾国内の金融送金の連絡や機関も不十分であり、為替もまだ組めない状態であった。

交通機関も基隆から新竹まで、旧式鉄道しかなく、南北縦貫道路も完成していなかったため、金員、物品の輸送には官民ともに非常に不便、不安を感じていた。

そこで、明治30年(1897年)3月、私が発起人を務め、大倉喜八郎氏、山下秀實氏、金子圭介氏、近藤喜恵門氏らと共に、明治31年(1898)4月1日に台北に無限責任の組合「驛傳社」を創立し、台湾総督府通信部の金員、物品、郵便、小包郵便業務への労働力提供を行った。

初代社長には大倉喜八郎氏にお願いをした。(実質的な経営は賀田金三郎に任されていた。後に、大倉喜八郎は社長を退き、賀田が社長に就任した)

 

驛傳社の営業課目をあげると、

1.国庫金の輸送請負

2.通信局と台湾全国の郵便局間の金銭物品の運搬請負

3.郵便物の輸送請負

4.郵便局為替過超金の運搬及托送

5.収入官の取扱う納税金額を取りまとめ、最寄りの金庫に納付する

6.陸軍所轄の軽便鉄道人夫の供給

 と、非常に重要かつ難事業であり、危険性の高いものであった。

 

驛傳社の業務は台湾全土へと広がっていき、台湾全国に連絡網(支店)を設け、国家のために貢献した。

同社は本店が台北にあり、支店は、台中、台南、宜蘭、台東に、出張所は、埔里社、雲林、恒春、枋蔡、蘇澳、北斗、彰化、大甲、後龍、鳳山、阿公社、基隆、新竹、嘉義、新営庄、曾文渓、安平、璞石閣、巴望営、烏口庄、紅毛田、葫蘆墩、澎湖島に設けていた。

一見、順風満帆にみえた驛傳社の業務であったが、当時の台湾の治安が驛傳社の運命を大きく変える事になったのだ。当時の台湾の治安は非常に悪く、至る所で土匪が出没していた。また、原住民からの襲撃も頻繁に起こっており、被害者が続発していた。驛傳社も例外ではなかった。

例えば、明治31年1898年)12月、驛傳社鳳山支店に土匪約50名が襲来。国庫金其の他2000円強奪事件。北斗では現金が奪われ、従業員2名が殺害される事件。台中、新竹、花蓮でも現金輸送中に従業員が殺害される事件。宜蘭では、原住民の襲撃により従業員が殺害された。明治33年1900年)9月には、官金銀券の運搬船が白砂岬沖で沈没するという事故も発生した。

このような、事件、事故による賠償金、弁償金が嵩み、遂に、大倉喜八郎氏は本事業の中止を決定されたのだが、実はこの驛傳社を設立するに当たり、後藤長官とお話をする機会があった。後藤長官から、「賀田君、よくぞそこに気が付いてくれた。君が考えている驛傳社の業務内容は、総督府としては必要不可欠な事業だ。色々と問題も多いだろうが、是非、実現させてくれたまえ。」と言うお言葉を頂いていた。故に、そう簡単に引きさがることは出来ず、必死に大倉喜八郎氏を説得したが、残念ながら大倉氏の決断は変わらなかった。」と悲しそうな顔をした。

賀田は「総督府(後藤新平)との約束を守れなかった」という事で自ら責任を取り、社長を退任。驛傳社を去ったのである。

後に、大正7年1918年)、驛傳社は組織を変更し、資本金100万円の株式会社となり、賀田の親族である波多野岩次郎が社長に就任した。

尚、この驛傳社が、現在の台湾の郵便局である中華郵政の礎を築いた。

賀田は話を続けた。「台湾では、郵政事業の開業日は清朝政府の大清郵政総局1896320日)とされているが、明治281895年)417日に、日本が台湾を清朝より併合し、日本軍が野戦郵便局を台湾全土に23箇所設置した。この時期「台湾民主国」が独自の郵便事業を行い、切手を発行していたが、鎮圧され短期間で終了している。

明治291896年)、郵便條例施行、野戦郵便局を民政局通信課に移管され、電信部門と合併したが、先にも述べたように、その中身はお粗末なもので、とても郵便事業とはいえる様なものではなかったのだよ。後藤長官もその事には非常に頭を痛められていた。それ故に、驛傳社は何が何でも存続させる必要があった。

ところで、驛傳社では生命保険も取り扱っていたのだよ。千代田生命の代理店として生命保険の契約取扱窓口となっていた。後藤長官も加入してくださり、何と1万円(現在の貨幣価値に換算すると約3,800万円)の契約に加入をしてくださった。」というと、聞き入っていた賀田組若手従業員一同が「1万円!」と驚いた。

結果はどうであれ、郵便事業の骨格を確立させたのは驛傳社が初めてと言っても過言ではないだろう。そういった意味では、現在の中華郵政の礎を築いたのは、驛傳社だったと言えるのではないだろうか。

「さあ、今日はこのぐらいにして、皆、早く家に帰りたまえ」と賀田が言ったが、皆はまだ話を聞きたそうにしていたが賀田は「さあ、さあ、帰った、帰った」と笑いながら皆を階下へ追いやった。玄関先で菊地が振り返り、「社長、ありがとうございました。次回はどんなお話を聞かせてくださいますか」としつこく食い下がった。

賀田は「次は、後藤長官の阿片対策について話そうか」と言うと「お願いします!」と一同が頭を下げて、各人は家路へと向かった。

賀田は誰もいなくなった事務所で一人、自分の席に座りながら「後藤長官との出会いがなかったら、自分はどうなっていたのだろうか。長官のおかげで私は台湾で思う存分力を発揮する事が出来た。ただただ感謝しかない。」とつぶやきながら、大好きな煙草を吹かした。

 

【参考文献】

播磨憲治 台湾の近代化に貢献した人物 賀田金三郎

「千代田生命保険相互会社」『台湾日日新報』1904年11月17日第2面

「千代田生命保険の営業成績」『台湾日日新報』1905年3月17日第2面

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