台湾近代化のポラリス 後藤の3大調査と人心掌握術

 「台湾日日新報が創設され、後藤長官が切望されていた総督府機関紙としての本来の役割を果たし始め、後藤長官も一安心されたでしょうね」と賀田金三郎の話を聴きに集まった賀田組若手従業員の一人、菊地は賀田にそう言った。これに対し賀田は「うーん、そうとも言えないなあ。台湾日日新報の創設は確かに大きな一歩ではあるが、それはまだ後藤長官にとっては序曲にしか過ぎないことだったのだよ。後藤長官が目指しておられたのはさらに徹底した統治政策だった。」と賀田は菊地に言った。菊地は「更に徹底した統治政策とは何ですか。」と賀田に問いかけた。この菊地という人物、若手の中でも人一倍好奇心が強く、自分が疑問に感じたことは、例え相手が社長の賀田であっても、率直に質問を投げかけてくるタイプだった。

賀田は「次の一手が台湾旧慣調査会の立ち上げと調査の実施だよ。」と言うと菊地は「後藤長官は、台湾で戸口調査、土地調査及び旧慣調査という3大調査を行った方だと言われていますよね。」と得意げな顔で言うと「そうだ。この3大調査があったからこそ、近代的な人流と物流、電気、水道、ダムといったインフラ建設をはじめ、金融、財政、教育などの社会的諸制度が確立、施行され、台湾近代化の基礎を作った。非常に重要な調査だったと言えるだろう。

特に、旧慣調査は、長官が内務省衛生局時代に、社会の制度・慣習が生まれた背景には、その様な制度・慣習を生み出す諸条件が存在していると主張され、それらの諸条件を明らかにする必要があるとして衛生状況調査を実施された。

日本の法令制度を台湾に導入する際に、台湾の慣習や社会制度について情報を収集し、それに基づき、台湾にあった修正等を加えなければ、必ず大きな摩擦が生じるとお考えになった。故に、まずは、旧慣調査をしっかりと行い、統治下にある台湾での法制度を作り上げようとされたのだよ。いつも言っている様に、後藤新平長官というお方は、常に一歩も二歩も先の事を読み、考えられるあらゆる問題を回避する方法をお考えになり、それを具体化させることに秀でておられた。」と賀田は心から感心した様子で大きくうなずきながら話を続けた。

 「後藤長官は、この台湾には大きく分けて2つの人民がいるとお考えになった。一つは文明とはかけ離れた生活を送る原住民族。そして文明の真っただ中にいる台湾人だ。さらに、台湾では多くの言語が使用されており、民族が違えば言葉も通じず、交流する事も出来ない。原住民族も他民族いるようで、その全ての民族が違う言語を使っている。その様な状態の中に、日本の法律をそのまま持って来ても上手く運用することは絶対に無理であるとお考えだったのだよ。故に、旧慣調査を急がれ、明治34年(1901年)10月に旧慣調査会規則の発布を見るに至った。調査会の会長には後藤長官自らが就任され、陣頭指揮を取られた。後藤長官は常々「「政治の妙諦は、なにも難しいことではない。生物学の原則に従って、その基底的事物を究め、これに順応する方策を緩急、時に応じて施行するのみ。それにはまず、その土地に現存保有される慣習制度を根本的に調査究明してかからなければならない」とおっしゃっていたからな。」と言いながら賀田は窓の外を眺めた。

窓の外には家路を急ぐもの、買い忘れた食材を急ぎ足で買いに行く女性などがいた。

すると菊地は賀田に対して「調査会の結果を踏まえて台湾における様々な法律や制度改革が行われ、近代化の道を進んでいく事になったということはよくわかりましたが、でも、それだけで統治政策って上手くいくものなのですか?何か忘れているというか、置き去りになっていることが有るように思うのですが・・・・。考え過ぎなのかなあ・・・・」と独り言のようにいった。その言葉を聞き逃さなかった賀田は振り返ると菊地を指さし「そうなのだよ菊地君、よくそこに気が付いた」と大きな声で言った。その声に一同は少し驚いた。

「後藤長官は調査を実施しながら、さらに凄いことをされたのだよ。統治政策において、いや、統治政策だけではなく、我々商売人の世界でも決して忘れてはいけない事なのだよ。何だかわかるかね。」と賀田は集まった賀田組若手従業員達を見渡した。その中の一人、最年少の森が「人心掌握」と聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声でつぶやいた。賀田は「森君、もう一度、大きな声で言ってごらんなさい」と言うと、全員が森に注目した。まさか自分のつぶやきが賀田に聞こえていると思わなかった森は驚き、その場で立ち上がり、直立不動の状態で「人心掌握ではないでしょうか」と大声で叫んだ。全員はその姿に思わず吹き出してしまったが、賀田は真顔で、大きな目をより一層大きく見開き「森君、その通りだ!」とより大きな声で言った。森は顔を真っ赤にして照れながら、満面の笑みで後頭部をかきながらその場に座った。

「人心掌握無くして統治政策は成功とは言えないと後藤長官はお考えになった。台湾の長い歴史を見た時、年長者を敬うという考えは相当根深いものだった。と言う事は、まずはこの年長者の人達の心を掌握しなければならないとお考えになり饗老典又は楊文会を行われた。

「饗老典」とは、80才以上の高齢者を招待する、つまり敬老会のことであり、「揚文会」は文人の招宴で、全島の儒生士紳、まあ言わばインテリと呼ばれている人達を招待された。

さらには、総督府内に保良局を設けて土匪の鎮圧を計ると同時に、不逞の徒に対する善導に努められた。また清政時代重用された挙人、秀才その他の官人あるいは文人墨客を起用されたのだよ。」と賀田は興奮気味に話した。すると菊地が「饗老典はどんな感じだったのですか?」と尋ねた。賀田は「聞くところによると、第一回饗老典は、明治31717日に台北で開催され、80歳以上の男女を招集してこれに菓錢を与え、酒食を用意してもてなしたそうだ。314人の対象者と、附添人を合すれば700餘名に及んだそうだ。さらには、式が終わると余興に移り、主客ともに喜び、楽しんだそうで、大成功したそうだ。その後、第2回饗老典は彰化で、第3回は台南、第4回は鳳山で挙行され、全て成功した。これで後藤長官は、台湾の北から南までの民心を掌握された。

また揚文会は、明治33年(1900年) 315日、台北淡水で開かれ、招きに応じて集まった全島の学士は72人にも及んだ。楼閣の上の式場の正面には、「揚文」である2字を大書した扁額を掲げ、その左右には美しくて立派な生花が沢山並んでいたそうだ。

後藤長官は揚文会の式場で演説を行っておられ、「揚文というものはもとより虚文に走り俗儒記誦詞章の弊を発揚するわけではない」と揚文の名を捉えて、古学者に古学の弊(=ならわしとなった悪さ)を説得し、また「もし諸君が一度胸を開いて貫通するに至るならば、多くの書房教育に従事する徒もまた自然に靡き、その風を改め自ら新たな域に進むようになるだろう。」とおっしゃった。後藤長官は、彼らを台湾の先覚者と賞賛し、他の人民模範として、また読書人(インテリと呼ばれる人々で、古典を理解出来、古典の様な作文が出来る人の事)の力を借り、台湾の旧慣を改新することを希望されたのだよ。

台湾は日本と同じく漢字文化圏に属し、儒教理論と言う点でも共通点をもっているが、漢族系の読書人達は、自分達は日本人よりも格上、先輩格であるという自負を持っていた。これは台湾統治政策を進める上で非常に不都合な事だった。そこで、後藤長官は揚文会を開設し、台湾の読書人である知識者を優待する礼を施し、彼らの力を借り、台湾の旧慣を改新された。彼らの発信力は台湾人に対しては大きな影響力があるからね。」と言った。

この話を聞いた賀田組若手従業員達はただただ、後藤新平という人物の先読みをする能力の凄さに感心するばかりであった。

 

 【参考文献】

矢内原忠雄  「帝国主義下の臺灣」

拓殖大学創立百年史編纂室(2001)「後藤新平―背骨のある国際人」

伊藤金次郎  「新領土開拓と後藤新平」

鶴見祐輔 「正伝・後藤新平―決定版 (3) 台湾時代」

戴国煇 「台湾―人間・歴史・心性」

辜顯榮 「後藤伯の追憶」「吾等知れる後藤新平伯」

杉山靖憲 「臺灣歴代總督之治績」

謝宗倫 日本統治時代における後藤新平の近代化政策に見る「生物学の原則」 国立高雄第一科技大学応用日語系、2007年度修士論文

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