台湾近代化のポラリス 台湾日日新報創設
「賀田さん、久しぶりにお会いしたと思えば、いきなり台湾新報と台湾日報を合併させ、新しい新聞社をつくるので協力して欲しいとは、驚きましたな」と台湾新報代表の山下秀實はややご機嫌斜めの様な口ぶりで賀田を睨みつけた。賀田は山下のその様な態度を一切気に留めず、終始笑顔で話をした。「山下さん、新しい新聞社を作るにあたって、台湾新報、台湾日報の両社の現株主の方々には、全員、新会社の株主からは外れて頂きます。」と言うと山下は「なんですと!」と大声を張り上げた。そして真っ赤な顔になり、手を震わせながら「では、我々には何の見返りもなく、大人しく身を引けとおっしゃるのか」と怒鳴った。
賀田はその声にも動じることなく、相変わらず笑顔で「山下さん、私が台湾貯蓄銀行を設立する際に、あなたにもお声をかけさせて頂き、株主になって頂いた。この銀行設立に対しては否定的な意見が多く、ほとんどの者が失敗すると言ってましたよね。しかし、実際に開行してみると、営業成績はどうですか。我々が予想していた以上に成績は良く、株主配当も予想以上の配当をお配りすることが出来ている。違いますか?」と言い、山下を見た。山下は「うーん・・・。確かに。」と言ったまま黙った。実際、台湾貯蓄銀行は、明治34年(1901年)1月の営業報告では、当座預金15万5000円となり、一割の株主配当が出来るまでになった。後に、支店も立ち上げていった。
その様子を見た賀田は穏やかな口調で、「山下さん、ここは一つ、私の顔を立ててもらえぬだろうか。」と言った。流石の山下も台湾貯蓄銀行で儲けさせてもらっているため、それ以上は何も言えなくなった。次に山下の頭をよぎったのが、それまで敵対視していた台湾日報との合併を承認するための大義名分であった。
賀田は山下の心を読み、先に「山下さん。新聞というものは常に公平で、正確な情報を伝達する使命を帯びています。特に、今の台湾においては、一日も早く台湾統治政策を前に進める必要性があります。そのためにも、総督府機関紙の役目も果たす必要があります。そこには、一切の私情は挟まず、正確に総督府の意向を伝えなければなりません。
現在、台湾新報、台湾日報は互いに競争し合い、その競争が激化するにしたがって、相手方を批難する記事が増えてきた。さらに、総督府批判の記事も増えてきた。これでは、台湾統治政策は一向に前に進まず、その結果、土匪達や抗日感情の強い台湾人達を喜ばすだけです。両紙共に、それは決して望まない事ではないでしょうか。」と言って山下の顔を見た。山下は「台湾統治政策を前に進めるための方法。台湾近代化を実現させるために必要な事」と心の中でつぶやき、「賀田さん、あなたの言う事は十分に理解出来ました。では具体的にどの様な方法で合併を進めるおつもりですか」と尋ねた。賀田は「よし、これで台湾新報は合併に承諾した」と確信し、「台湾新報を適正な値段で、この賀田が買い取ります」と告げた。「賀田さんが買い取る!」と山下は驚き、「この人は本気で台湾統治政策を前に進めようとしている。」と思った。
台湾新報を賀田が買収するという方向で、山下が他の株主を説得する事で話はついた。
台湾統治を前に進めるのは決して台湾総督府だけの仕事ではない。我々民間人も、民間人としてやるべきことが有るはずだ。台湾統治が始まって今日まで、一向に統治政策は前に進んでいない。このまま同じやり方ではダメであるということなのだよ。
変革すべき時ではないだろうか。その大きな一方が、台湾新報と台湾日報とを合併させ、新しい新聞社を作る事。そして、人員も一新し、新しい株主、人材で出発すべきだ」と賀田は自分が吉田松陰になった気分で二人の説得にあたった。
そして「台湾新報の山下さんは快諾してくれたよ。あの方は先見の明がある」と言うと河村は「山下さんが快諾された!」と驚きを隠さなかった。そしてしばらくして、「台湾日報は台湾統治政策を推し進めるため、さらには、台湾の近代化を推し進めるために創刊された。ここへきて、それをさらに大きく前進させるために、二紙の合併が必要であるならば、異論はございません」と返答した。賀田は、まずは自分が台湾日報を買収し、その上で二紙を合併させる旨を伝え、川村、内藤は同意した。
社長には後藤が推挙した守屋善兵衛が就任し、賀田は大株主取締役となった。
同新報はその後、大株主や重役は幾度となく変わったが、金三郎だけは、どの様な時でも、大株主取締役として残り続けた。
同新報の創立に関わったという縁と、新聞の社会の公器たる意味、そしてその価値というものを金三郎は十分に理解していたからであろう。現に金三郎は、明治34年(1901年)、台中木下知事時代に「台中日日新聞(後の台湾新聞)」の創刊の際にも、金子圭介、守屋善兵衛両氏と共に、その創刊に尽力し、同社の取締役になった。
その後は 8 頁を発行するときは、第 5、6 面に漢文の記事を乗せ、6 頁を発行するときは、第 4 面または第 5 面の 1 面だけに掲載した。
漢文台湾日日新報は、もともと台湾日日新報に付随した漢文の紙面であったが、明治34年(1901 年) 7 月 1 日、始政10 周年を迎えて台湾日日新報は全て日本語となり、新たな新聞紙として、6 面の漢文台湾日日新報を発刊することになった。
それ以降、漢文台湾日日新報は 6 頁の日刊紙という形態で発行された。
しかし、漢文台湾日日新報は、明治44年(1911 年) 11 月 30 日に廃刊となった。漢文台湾日日新報が廃刊された後には、日本語の台湾日日新報に毎日 2
頁の漢文欄を設けた。その後、昭和12年(1937 年) 4 月に漢文欄までもが廃止された。
一方の章炳麟は、清末・民国初の学者と革命家と称されている人物で、様々な逸話が残されている。(詳細は、本ページ最後に記載)
更に後藤は、本国の記者をも利用し、反対意見の緩和を図っていた。当時の言論団体であり出版社でもあった民友社の徳富蘇峰宛に「毎々御手数奉感謝存候
御蔭を以て海外各新聞並内地欧文紙上に大体の計画を知らしむることを得」(明治32年3月3日)という書簡を後藤は送っている。後藤は徳富に対して様々に依頼していたようである。
ある意味、後藤系新聞「台湾日日新報」の誕生という側面も無きにしも非ずだが、この時期、必要不可欠な策であった。事実、内外からの批判的な言論活動は、土匪の鎮圧やその後の近代的事業の導入をはじめとして、後藤による台湾統治が「成功」したとの認識が強まるにつれて下火になっていった。
【参考文献】
播磨憲治 台湾の近代化に貢献した人物 賀田金三郎
湯志鈞(近藤邦康訳)「台湾における章炳麟」「中国近代の思想家」
高野静子編「往復書簡 徳富蘇峰―後藤新平 1895-1929」
李佩蓉(2019)「台湾における近代思想の萌芽と漢文新聞」『龍谷大学社会学部紀要』
谷川 舜 植民地台湾にみる帝国日本の外地言論体制確立の一類型 日本マス・コミュニケーション学会・2019年度春季研究発表会・研究発表論文
許時嘉 論文「此の身は飛蓬に類し、此の心は淡きこと水の如し」―籾山衣洲の清国体験をめぐって 山形大学人文社会科学部研究年報 第18号
章炳麟(しょう へいりん、1869年1月12日 - 1936年6月14日)
1895年、日清戦争の敗戦とそれに伴う下関条約の締結は、中国の知識人たちに衝撃を与えた。章炳麟は、この年に結成された強学会に参加する。強学会は、立憲君主制としての穏健的革命を主張する政治団体(変法派・保皇派・変法自強運動)であり、章炳麟はその機関誌『時務報(中国語版)』でジャーナリストを務める。章炳麟は『時務報』に二編の記事を寄稿し、変法派として一年半ほど活動する。しかしやがて主張の相違から、変法派から距離を置くようになる。
1898年、変法派を容れた光緒帝が改革を実行するも、西太后・袁世凱ら保守派によって鎮圧され、変法派が処刑・弾圧されるという事件が起きる(戊戌政変)。章炳麟は既に変法派と距離を置いていたが、弾圧が自分にも及ぶのを避けるため、台湾を経て日本へ亡命する。
章炳麟はその後、日本と上海を往復しつつ、変法派と対照的な革命派として、急進的革命を主張するようになる。
上海に戻った章炳麟は、蔡元培が結成した愛国学社に参加し教師となった。そこで『革命軍(中国語版)』を著した鄒容と出会う。この時鄒はわずか19歳であり、その『革命軍』は革命を礼賛し、排満復仇を強く表明したセンセーショナルな書籍であった。両者はその思想的相似点から密接な関係を構築するに至っている。
章炳麟自身は1903年6月、「康有為を駁して革命を論ずる書」を雑誌『蘇報(中国語版)』に連載した。これは康有為が海外の華僑に対し立憲こそ中国がとるべき道で革命は非であると説いたことへの反駁の論説である。『革命軍』と「革命を論ずる書」は公然と清朝打倒を主張するものであり、知識人への大きな反響を呼んだ。そのため鄒容・章炳麟ともに逮捕されるに至る(蘇報事件)。獄中、鄒容は死を迎えるが、章炳麟は日々仏教書を読んで耐え、3年後に釈放されたのち、再び日本へと亡命した。
蘇報事件により章炳麟の知名度が高まり、鄒容の『革命軍』と章炳麟の「革命を論ずる書」は知識人の間に広く知られるようになり、特に章炳麟の文章にしては非常に読みやすい文体であったこともあり、双方併せて『章鄒合刻』というタイトルで刊行された。
1904年、蔡元培および陶成章が中心となって、浙江省出身者を中心とする革命団体である光復会が上海にて結成された。設立には獄中の章炳麟が深く関与していたとされる。なお「光復」には清朝によって従属せしめられた中国で光り輝く中華を再度復するという決意が込められている。
1905年8月、宮崎滔天・頭山満・北一輝といった日本のアジア主義者の協力のもと、東京にて、光復会・華興会・興中会を統合した「中国同盟会」が、孫文を代表として結成された。章炳麟は亡命後ただちに入会し、その機関誌『民報』の主筆となって種族革命を鼓吹し、変法派梁啓超の『新民叢報(中国語版)』と論戦を展開した。
またアジアにおける被侵略民族にも眼を向けてその団結を図り、亜洲和親会を発起した。しかしやがて章炳麟と孫文両者の革命の方向性、すなわち種族革命志向と西洋的な民権の確立への志向の相違が明確になると孫文派と疎遠となり、1910年に改めて光復会を立ち上げ、同盟会とは対立するようになる。
1911年10月10日、武昌蜂起を起因として辛亥革命の成功を知った章炳麟は直ちに帰国した。その革命宣伝の功績により民国政府より勲一等が授与され、孫文・黄興とともに「革命三尊」と称されることとなった。しかし「革命軍興れば、革命党消さん」と述べて中国同盟会の解散を主張したり、中華民国連合会(後に統一党と改称)を組織したことが原因で孫文との意見対立が生じた。
1931年に満州事変が勃発してからは、蔣介石の「安内攘外」(先に中共を鎮圧し、その後で日本を討つ)政策を批判し、「抗日救国」を唱えて日本への抗戦を積極的に主張した。
芥川龍之介は、1921年に大阪毎日新聞の海外視察員として上海に滞在していた際、当時54歳の章炳麟と会談しており、その風貌について次のように書き残している。「氏の顔は決して立派じゃない。皮膚の色は殆黄色である。口髭や顎髭は気の毒な程薄い。突兀と聳えた額なども、瘤ではないかと思う位である。が、その糸のように細い眼だけは、-上品な縁無しの眼鏡の後に、何時も冷然と微笑した眼だけは、確かに出来合いの代物じゃない」「章炳麟が袁世凱に捕らえられてなお生きていられたのは、この眼の鋭さのためだ」と述べている。
章炳麟は奇行が多いことで知られ、瘋子(常軌を逸した人)と諷された。種族革命に心血を注ぎ、変法派に徹底した批判を加えた革命家の熱情が、時として変法派以外にも向けられたためであろう。すなわち孫文を痛罵し、五四運動に反対し、白話運動にも非難を加え、学術方面では甲骨学にも異を唱えた。また日本及び日本の学者にも批判の矛先を向けている。革命事業においてその熱情は反骨精神として評価されるが、それ以外に向けられた場合(特に辛亥革命以降)には頑固な保守、あるいはアナクロニズムと評されることが多い。章炳麟評を聞く限り、周囲に緊張を強いて、ある種近寄りがたい雰囲気を持つ人物だったかのようだ。
魯迅(周樹人)は、青年期に留学生として日本に滞在しており、1908年、弟の周作人らとともに東京小石川の章炳麟邸にて『説文解字』の講義を受けている。魯迅は当時の章炳麟について、上述の奇行録とは対照的に温和な人物として回想している。魯迅は同じ浙江出身の章炳麟を尊敬していたようで「先生の業績は革命史に残るものの方が、学術史に残るものよりもきっと大きいであろう」との評を下している。また「先生のにこやかな音容は今もなお眼のあたり見るごとくであるのに、講義していただいた『説文解字』の方は、一句もおぼえていない始末なのである」、「お偉方にはとかくむかっ腹をたてられたが、学生に対しては実に優しく、家族や友人と同様に気軽に談笑された。…まじめかと思えば冗談をとばし、にこにこ講義をされる」とも述懐している。周囲の厳しい章炳麟評を当然承知したと思われるが、魯迅は「にこやか」、「冗談をとばし」と形容しており、ここに章炳麟に対する深い敬愛の念を感じ取れる。ちなみに章炳麟と魯迅の師弟は同年に亡くなっている。そして上に引いた文章「太炎先生に関する二、三の事」は魯迅が亡くなるわずか10日前に書かれた絶筆である。
参考:ウィキペディア
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