台湾近代化のポラリス 二紙合併計画

「後藤さん、今の台湾における問題点として、土匪問題は早急に解決しなければならない問題だが、そのほかに急ぎやらなければならない事はどの様なことがあるかね」と児玉源太郎台湾総督は後藤新平民生局長に尋ねた。

これに対し後藤は「総督、問題は山積しております。台湾を近代化するためには、全てを新しく作り直す必要がございます。その中でもとりわけ急ぎ手を付けなければならない問題としては、言論統一です。」と答えると児玉は「言論統一?」と今一つ意味がわからないと言う顔をして後藤を見た。

「今の台湾には、樺山総督時代に出来た台湾新報と桂総督時代に出来た台湾日報の二紙がございます。総督もご承知の様に、この二紙は常にお互いを非難し合っています。民間紙が互いに競争し合うことは良いとは思いますが、非難の矛先が総督府にまで及んでおります。その結果、現在の児玉総督のご意向、お考え、方針等々、今後の台湾統治に必要かつ重要な事項がきちんと在台日本人や台湾人に伝わっておりません。これでは、我々が目指している台湾統治政策は上手くいくものもいかなくなってしまいます。」と後藤が児玉に対し珍しくやや強い口調で言った。児玉はそれに対し「確かにその点は私も気になっていた。で、具体的にどの様な方法があるかね」と後藤に聞きただすと後藤は「最も理想的なのは総督府機関紙となるものを作ることが必要ですが、それを実現するためには、まずは、台湾新報と台湾日報を合併させる必要がございます。そのための費用としては、5万円から6万円(現在の貨幣価値に換算すると19,000万円から23,000万円)が必要となります」と答えると児玉は目を丸くして「5万円から6万円」と驚き、総督の椅子に崩れるように座り込んだ。後藤も大きくため息をつくしかなかった。

二人のそばで話を聞いていた横澤次郎秘書官が後藤の横へ行き、耳元でささやいた。

「局長殿、実は私の知り合いに大倉組台湾総支配人の賀田金三郎という人物がおります。彼は、日本が台湾を統治した3か月後には台湾に来ており、台湾の今までの状況はすべて理解しております。また、大倉組の大倉喜八郎は賀田に対し、絶大なる信頼を置いていると聞きます。一度、彼に相談してみるのは如何でしょうか」と言った。

後藤は「賀田金三郎?聞いたことない名前だな。大倉組の台湾総支配人をしているならば、今までも総督府へ出入りしていたのかね。」と横澤に聞くと「はい。ほぼ毎日の様に総督府には参っております。何度か、廊下で局長殿とはすれ違っております。」と答えると「そうだったか。何せ、台湾着任早々で、色々な人物と会っているから、まだまだ名前と顔が一致しないのだよ」と少しバツ悪そうに言った。そして横沢に対して「賀田金三郎のところへ行ってくれるか。要件についてはまだ言わない様に。外部に話が漏れると色々と厄介だからね」と言った。

当初横澤は賀田組事務所へ行く予定にしていたが、後藤が「事務所では誰が話を聞いているかわからない。我々が「会いたい」という旨を伝え、それを聞いた第三者が色々と詮索されても困るので、自宅の方へ行ってくれるか」と指示があった。

後藤と言う人物は、常に、リスク回避を考えている人物であった。

横澤は後藤からの指示通り夜に賀田の自宅へ行った。丁度夕食を終えた時間帯で、賀田の妻、道子が出迎えてくれた。道子は賀田に「総督府の横澤様がお越しです」と伝えると、賀田は「横澤様が。こんな時間に一体何だろう。」と言いながら道子に「応接室へお通ししてくれ」と伝えた。

応接室に通された横澤が道子に促されソファーに座ろうとした時、賀田が入って来た。賀田は背広を着ていた。その姿を見た横澤は「賀田さん、今、お帰りだったのですか」と尋ねると賀田は「いいえ。今からまた事務所へ戻りますので」と言った。横澤は思わず時計を見て「こんな時間からまたお仕事ですか」と驚いた。賀田は笑いながら「貧乏暇なしですよ」と答えた。一通りの挨拶を済ませると横澤がそれまでとは違い、小声で「総督が何か用があるそうだから、明朝、行ってみてはどうですか」と言った。勘のいい賀田は横澤が小声で話した意味を理解し余計な事は一切聞かずに「わかりました」とだけ答えた。

 

翌朝、賀田は総督府を訪ねた。玄関で横澤を呼び出してもらった。しばらくすると横澤が現れ、二人で総督執務室へと向かった。

総督執務室に入ると、そこには、児玉源太郎総督と後藤新平民生局長の二人が腰かけていた。これが賀田金三郎と後藤新平との初めての出会いであった。

 二人に挨拶を終えた賀田に対し、児玉が「台湾新報」と「台湾日報」の現状について説明をした。そして後藤がそれに続き「この問題を解決するには両紙を一つにまとめる必要がある。総督府機関紙にする必要があるのだよ。そうしなければ、台湾統治政策を推し進める事は出来ない。今のままでは総督府の方針が正しく伝わらないのだ。ただ、そのためには、両紙を説得すると共に、金が少し要る。君は工面できないか。もしも君が工面できなければ、大倉喜八郎氏にそう言ってくれぬか」と言い、賀田を見た。

賀田は「一つだけお尋ねしてもよろしいですか」と言った。後藤は「何だね。何なりと聞いてくれ」と答えた。賀田は後藤と児玉の顔を交互に見た後、ゆっくりとした口調で2つの事柄について質問をした。その質問に後藤が即答すると、それを聞いた賀田は「承知致しました。これは大倉に言うまでもございません。失礼ながら私が両紙を説得し、資金は、私が立て替えて差し上げます」と即答した。

 賀田が総督室を出た後、児玉は「本当に彼に出来るのだろうか」と不安げな顔で後藤を見た。後藤は「断言は出来ませんが、彼ならば大丈夫かと思います」と答えると「どうしてそう思うのかね」と児玉。後藤は「彼が私に尋ねたことは、二紙合併はお国のために必要不可欠な事なのかという事と、新しい新聞社の社長に推挙する人物はいるのかという2つだけでした。合併によってどれだけの儲けが予想されるのかとか、これを成し遂げた際、自分にはどれほどの利益があるのかなど、一切聞きませんでした。また、普通ならば、この難問を成し遂げたならば、自分が社長になりたいと思うのが常ですが、彼はそれを求めず、私の推挙する人物を社長にする事を受け入れました。彼は、商売人でありながら、お国のために役に立ちたいという気持ちが強い男と私はみました。彼ならば、やり遂げてくれるでしょう」と答えた。

後藤は賀田に対し、新しい新聞社の社長には、自分が内務省衛生局時代から交流があり、明治27年(1894年)に「日本衛生新報」を発刊、後藤の知遇を得て台湾総督府衛生顧問付書記となっていた守屋善兵衛を推挙した。

 ここからが賀田金三郎にとっては大変な作業となった。まずは、両紙の代表者達と会って、合併を説得する必要があった。さらには、新しい新聞社には、新しい社長を就任させることも説得する必要があった。



守屋善兵衛

國立臺灣大學圖書館 臺灣舊照片資料庫


【参考資料】

播磨憲治 台湾を近代化に導いた人物 賀田金三郎

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