台湾近代化のポラリス 児玉総督怒りの文書
明治31年(1898年)9月29日、福建省南部の厦門(アモイ)にある日本領事館の上野専一 一等領事から本国外務省宛に電文が届いた。その内容は以下のようなものであった。
「台湾ニ於ケル土匪ノ為メ清国商賈其他ノ輩ニシテ便舩毎ニ厦門ニ帰着スルモノ夥多ナリ。而シテ目下台北トニ商業ハ渾テ停止セラレ、諸銀行モ亦其取引ヲ休止セリ。右児玉総督ヘモ通報シ置キタリ」
(意訳)「(意訳)台湾の土匪によって、清国商人たちが船が着く毎に続々と引き上げてくる。このため厦門・台北間の商業はすべて停止し、銀行取引も休止している。この旨は台湾総督にも通達した」
事態を重要視した外務省はこの電文を参謀本部や海軍軍令部など各方面に伝えている。
その中には、「台湾から厦門に来る者の中に、厦門台湾間の貿易で財をなした日本籍(あくまでも日本籍というだけで元々は台湾人)の林本源一家(*1)がいたが、彼らは、台北全域で「土匪」が悪行の限りを尽くし、物品を奪う事件が頻発、商売の安全が保障できない状態にある。また、警察は一切、頼りにならないという。
故に、台湾との取引がほぼ停止、為替も中止している。清国人は「総督府の政治が威信がない」と冷評し、土匪の頭目が帰順したとはいうが「金目当ての偽装」との声も高いという。厦門領事館はこうした風説を打ち消すよう努力しているが、こうした事態が発生している以上何等かの原因があるはずだ。こうした事情を再度、前日(九月三〇日)午後、台湾総督府に打電した。」というものだった。
同年9月29日の夕方。後藤新平民政局長の執務室に一人の事務官が駆け込んで来た。かなり慌てた様子で、「総督がお呼びです。直ぐに、総督室へ来て欲しいとの事です。理由はわかりませんが、総督、かなりご立腹のご様子でした。」と後藤に伝えた。
「総督がご立腹?」と首をかしげながら席を立った後藤は、背広に袖を通し、あえてゆっくりと総督執務室へと向かった。総督執務室に入るとそこには、顔を真っ赤にして、鬼のような形相の児玉総督がいた。後藤も児玉とはそれなりに永い付き合いになるが、ここまで怒りをあらわにした児玉を見るのは初めてだった。
「どうかなさいました総督」と後藤が尋ねると、「後藤さん、これを見てくれ」と上野領事が送って来た電文を手渡した。
「これは・・・・」と叫んで後藤。後の言葉が出てこなかった。しばらくして児玉が後藤に対し「欄外をみてくれ。参謀本部や軍令部などにも伝達したと書いている。」と声を震わせながら言った。
陸軍中将であった児玉の立場上、この様な内容の電文が参謀本部や軍令部にまで伝わると面子丸つぶれである。実際、陸軍側からも詳しい事情が聴きたいと言われていた。
後藤は児玉の立場を理解した上で、「総督、これは直ぐに、陸軍省に対し、総督のご意見を述べるべきです。上野領事はあくまでも厦門の領事。今の台湾の状況を直接知りません。全て、間接的に聞いた話ばかり。総督府のやり方に反対の意見を持つ清人の話だけを信じて報告しています。確かに帰順した土匪を疑うものはおります。それが原因で、一時的に厦門に避難した者もいると聞いております。しかし、実際のところ、帰順した土匪によって被害を受けた者は一人もおりません。土匪のふりをして徘徊している悪党がおりますが、それらは取締りを強化すると共に、見つけ次第、逮捕しております。ここはまず、怒りを抑えて、陸軍省に電文を送られるべきです。」と進言した。
児玉は「確かに後藤さんの言うとおりだ。上野領事は直接、台湾の今の実情を知らない。一方の話だけを聞いて、その真偽を確かめる事もせず、この様な電文を送った。許しがたい行為だが、今は、その事を追求するよりも、まずは、本国に対して、誤解を解くべきだな。早速、日本側に文書を送るようにする。ありがとう、後藤さん」と言い、執務室中央に配置されている執務机に児玉は座った。その顔からは怒りは消えていた。
後藤は総督室を後にした。総督府の廊下を歩きながら彼は、「今までの様なやり方を続けているだけではまた、今回と同様の非難を浴びる事になるだろう。そろそろ次の段階へ移行すべき時期かもしれん。何としてでも、一刻も早く土匪問題を解決させ、台湾統治政策を前に進めなければならない。」
これにより、土匪は徹底的に制圧され、日本が台湾を統治して4年半近くを経て、やっと台湾近代化に向けて扉が開かれることになった。
【厦門日本領事館 上野専一領事の電文及び正式文書と外務省とのやり取り】
写真は、外務省外交史料館「帝国二於ケル暴動関係雑件第一巻」アジア歴史資料センターより借用
(*1)林本源
林本源(りんほんげん)は板橋林家とも称し、清朝統治下の台北板橋における家族の総称。「林本源」は個人名称ではなく、板橋林家の屋号である。
【起源】林家は福建漳州府龍渓県白石堡を出身とする家族である。台湾における開祖は林応寅であり、1784年(乾隆49年)に長子林平侯と共に新荘に移住したのが最初である。統治で米穀業で財を成した林平侯は献金により柳州知府に任じられたこともあったが、まもなく官を辞し財産を築いた。死後は財産を「飲」、「水」、「本」、「思」、「源」の5つの屋号にて林国棟、林国仁、林国華、林国英及び林国芳の息子5人に分割された。そして「本」、「源」を相続した林国華と林国芳が同母兄弟であったため、後に商号を合わせて林本源と称されるようになった。住居は現在板橋林家花園と称されており、往時の豪華さを偲ばせる住居跡は板橋の観光地となっている。
【清朝統治下】清朝末期になって登場した林維譲及び林維源は林家の中でも高く評さされる人物である。1871年、台湾に漂着した琉球漁民が原住民により殺害されたことに端を発する台湾出兵に際し、清朝より派遣された欽差大臣の沈葆楨に対し、事件後後山及び山区の撫墾を目的に財政援助を行い、1884年の清仏戦争では欽差大臣劉銘伝に対し林維源は銀20万両を寄付し、劉銘伝に協力し台湾防衛に尽力しまた墾務大臣に任命されるなど活躍している。これらの活躍により李鴻章、盛宣懐等との知遇を得、1886年には太僕寺正卿に任じられている。1894年の西太后の還暦祝賀式典では30,000両の費用を拠出している。また盛宣懐と共に蘇州の「留園」を見学した後に台湾で同じ庭園を造営しようと、全ての建材や草木を唐山より運び、現在台湾を代表する庭園を完成させるなど文化的な事跡もある。
林熊徴。1926年 6代目の子孫の林熊徴は、華南銀行の創設者のひとり。東京の中国同盟会のメンバーでもあり、孫文を経済的に支援した。妻は盛宣懐の五女。日本人の高賀千智子(華名・林智惠)との間に生まれたひとり息子の林明成は、華南ファイナンシャルホールディングスの代表で、台湾有数の富豪。
7代目の子孫で林熊徴の甥にあたる林衡道は、日本統治時代に日本で生まれ、仙台の東北帝国大学を卒業。台湾の多くの大学で教鞭をとった。台湾省文献会主任委員を務めたほか、『台湾史』などの著書多数。
【参考資料】
外務省外交史料館「帝国二於ケル暴動関係雑件第一巻」アジア歴史資料センター
国立国会図書館「公文類聚・第20編明治29年第十二巻外事1・条約改正・国際・通商」アジア歴史資料センター
台湾総督府法務部『台湾匪乱小史』
鶴見祐輔『後藤新平第二巻』
許世楷『日本統治下の台湾』
日本近代史のWEB講座 「土匪」の帰順は信用できるか?~台北厦門間の経済活動の中断をめぐって
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