台湾近代化のポラリス 土匪問題解決へ
「社長が用立てたお金は、最終的には総督府から戻って来たのですか?」と賀田組従業員の菊地は賀田金三郎に尋ねた。これに対し賀田は「菊地君、お金というモノは常に循環しているモノなんだよ。だから、私のお金が総督府へと行き、色々なところを循環して、気が付けばまた、私のところに戻ってきている。だから、追いかけてはいけない。追いかけるとお金はどんどん逃げていく。」と菊地の質問の答えにはなっていない答えを返した。
菊地はさらに、「社長、お金というモノについてはよくわかりましたが、総督府のために用立てたお金はどうなったのですか?」とさらに質問すると、賀田は少しムッとした顔をして「菊地君、君は大きな誤解をしている。私は総督府のためにお金を用立てたのではない。日本と言うお国のために用立てた。役に立てて頂きたいと思ったから用立てたのだ。その結果、お役に立てたのだから、それで十分ではないか。後藤長官の台湾統治政策の中で、この土匪問題は非常に大きな問題だった。台湾近代化を実現するためには、土匪問題を完ぺきな形で成功させる必要があった。後藤長官はその後、様々な政策をこの台湾で実現された。その結果、台湾の近代化は実現した。その全ての原点には、土匪問題解決というのがあっての事なんだよ。それほど、この土匪問題は大きかったということだ。」とやや厳しく言った。
菊地は「すみません。」と少ししょんぼりしたように返答した。その様子を見た賀田は「菊地君、後藤長官というお方は、常に一歩も二歩も前を見据えた政策を打ち出されている。その後藤長官でさえ、土匪問題については苦しめられ続けた。それほど大きな問題だったんだよ。」と言い、振り返り、窓の外を眺めた。
すると今度は青木が「その後、陳秋菊はどうなったのですか?」と聞いてきた。賀田は「陳とは、明治31年(1989年)8月10日に帰順式を行った。後藤長官もご出席された。後藤長官は、陳に対し、樟脳の採掘と生産の権利を与えると約束され、陳は1,300人以上の抗日志願兵のグループを率いて帰順するために山を下りたが、そのうちの何人かは日本軍によって惨殺されたそうだ。理由はよくわかっていない。それ以来、陳は勤勉かつ倹約して財を成し、裕福に暮らしていた。明治40年(1907年)5月には、「台湾紳章条規」(明治29年台湾総督府令第40号)により「学識」や「資望」を有する本島人を表彰するものとして制定された「紳章」を台湾総督府より授与された。陳自身は、裏切りと降伏のために罪悪感を感じることが多く、時事問題についてはほとんど話さなかったそうだ。(陳秋菊は1922年8月22日にうつ病で死去)」
「では、これで台湾近代化実現のための最大の問題であった土匪問題は解決ってことですね」と青木が言うと賀田は「実はそうではなかった。明治 31年 7 月 28 日の林火旺・林少花・林朝俊以下の土匪 700 餘名の帰順を手始めに、8 月 10 日、坪林尾の陳秋菊、8 月23 日、水返脚の盧阿爺など約 90 人、9 月 8 日、芝蘭の簡大獅など約 500 人、さらに、翌年 3 月太平頂の柯鐵・4 月 8 日、鹽水港附近の阮振、及び 11 月 12 日林少猫などの帰順は順調に進んだ。元々、後藤長官のお考えは、「自分の意志で日本に帰順させる」ことだったので、後藤長官自らが山地まで行って土匪と会い、大義名分を説いて降伏をうながすことまでされた。こういう後藤長官の方針に対して、各地域の役人は「土匪に相当の便宜と優遇を与えて犠牲を払っている」と不満を持つ者も多く、しかも、日本側の平身低頭ぶりに増長する土匪も出てきて、地方の軍隊・警察の中には、「こんな長官、総督のために、犬馬のように働いておられぬ」と退職する者もいたのだ。しかし、後藤長官はご自身の方針を一切変えることなく、貫き通された。
しかし数百年続いた土匪の根深さは、後藤長官の想像を遥かに超えるものだった。
帰順式の後にまた土匪に戻る者はいるし、日本がここまで譲歩しても日本人襲撃事件は無くならなかった。
明治32年頃の新聞には、「吾らは台湾を得てはるかに失望せり」と児玉総督・後藤長官に対しての批判記事が掲載されるほどだった。
後藤長官にとっては台湾での執務期間の中で、この時期が一番お苦しい時期だったと思う。
そんな中、追い打ちをかける様な大事件が明治34年11月に発生した。樸仔脚(朴子の旧名)事件だ。
台湾南部の樸仔脚(今の嘉義県朴子市)で、2~300人の土匪が10時間以上にわたって日本人街を襲い、婦女子を含む日本人をほぼ皆殺しにする凄惨な事件が発生した。この事件発生の間、台湾人住民は見て見ぬふりをし、なかには、日本人が隠れている場所を教える者もいた。
児玉総督、後藤長官はこの事件の報告をお聞きになって大変ショックを受けられた。そこで、後藤長官は方針を転換され、徹底鎮圧を指示された。土匪のアジトに対する奇襲攻撃などを行い、一掃作戦を始められたのだ。例えば、明治35年5月には、帰順式に集まった土匪に「疑わしい挙動があった」として即座に全員をその場で処刑した。
土匪鎮圧の日本側のやり方を見て、多くの台湾人は震え上がったと言われている。
明治35年(1902年)の最終的討伐では、裁判による死刑537人、臨機処分による殺戮4033人という多くの死者を出した。日本が統治を開始した頃の台湾の人口は約250万人だった。土匪やその疑いのある人を処刑した数は、人口の1%以上もあった。そこに、日本人の死亡者を含むと、どれだけの多くの血が流れたことか。
この様な悲劇の結果、土匪による犯罪・危害は大幅に減少し、明治35年の夏には、軍隊や警察の警備がなくても人々は自由に各地を歩けるようになったのだ。」
そう語りながら賀田はそっと目頭を押さえ、「罪無くして命を落とした日本人、台湾人の人々のことを我々は忘れてはならない」と絞り出すような声で言った
杉山靖憲(1999)『臺灣歴代總督之治績』
杉山靖憲(1922)『台湾歴代總督の治績』
後藤新平(1922)『日本植民政策一斑』東京:拓殖新報社
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