台湾近代化のポラリス 賀田への相談
寝る時間を惜しんで仕事に打ち込むというのが賀田金三郎であった。
この日もいつもと同じ様に事務所に一人で残り、夜10時を過ぎてもなお、仕事をしていた賀田であった。そこに、総督府の横沢秘書官が息を切らせて駆け込んできた。
その様子に驚いた賀田は「どうされましたか」と席を立って駆け寄った。横沢は「ご、ご、後藤局長が直ぐに総督府に来て欲しいとおっしゃっています」と吐き出すように言った。
賀田は横沢の慌てようから何か一大事が起こったと察知。「わかりました」とだけ言って慌てて身支度をし、横沢と一緒に総督府の後藤新平が待つ執務室へと向かった。
総督府までの道すがら、横沢は今の状況を掻い摘んで賀田に説明をするのだが、息の挙がった横沢の話す内容は今一つ要領を得ず、賀田は「横沢さん、とにかく急ぎましょう」と小走りに総督府を目指した。
総督府に到着した賀田は改めて身なりを直し、民生局長室の扉をノックした。
部屋に入ると、後藤新平が動物園のライオンがオリの中をウロウロとする様に、腕組みをしながら賀田の到着を待っていた。
「おー、賀田君。夜遅くにすまなかったな。まあ、座ってくれ」と賀田にソファーに座るように促したが、その顔は険しく、眉間の間には苦悩のシワがくっきりと現れていた。
賀田が座るや否や後藤は堰を切った様にしゃべり始めた。
「賀田君は台湾を我が国が統治した当初から台湾にいるそうだね。」と切り出した。後藤は横沢が賀田を呼びに行っている間に賀田金三郎について可能な限りの情報を既に得ていた。
「我が国は今、この台湾を発展させるために様々な政策を立案している。その一つが、北部の産業発展のために必要不可欠な道路建設だ。しかし、賀田君も知っての通り、今、台湾では土匪という厄介な存在が幅を利かせており、計画が思う様に進んでいない。匪賊の問題解決のために、歴代の総督は武力で制圧を続けていたが、その成果は賀田君もご承知の通りだ。そこで、児玉総督は武力ではなく、平和的にこの問題を解決されようとしている。私は土匪達を帰順させるための条件を考えた。それがこれだ。」と後藤はいつもの様に背広の内ポケットから帰順の条件が書かれたメモを賀田に渡した。
賀田はその内容を読み、「後藤局長、この内容は素晴らしいと思います。」と返答すると、「賀田君もそう思ってくれるか。そこで、北部の土匪の頭目である陳秋菊との交渉に入った」と言うと、「あの陳秋菊と交渉を」と賀田は驚いた。陳については台湾に居る者ならばその力の強さ、他の土匪への影響力の大きさを知らないものはいないぐらいだった。
後藤は「そうだ。あの陳秋菊との交渉をだ。交渉には、西郷菊次郎があたってくれた。その結果、やっと陳は帰順する事に同意した。」と言った後、さらに険しい顔になり「しかしだ」と話を続けた。
「彼らが提示してきた条件に、明日の昼からの帰順式までに、8万円を用意しろというものだった」と言って賀田を見た後藤だが、賀田は顔色一つ変えず後藤の話を聞いていた。
「8万円という大金が必要だと言っても、この男、顔色一つ変えていない」と後藤は内心少し驚いた。
「私と児玉総督が台湾総督府に着任してまだ間がないのだが、その間にも既に土匪帰順に金を注ぎ込んできた。正直な話をするが、もう総督府には予算がない。機密費も底をついている。そこで、賀田君に相談なのだが、陳の帰順に必要な金を用立て出来ないだろうか。もし、よければ、この件を君の上司である大倉喜八郎氏に相談してもらえないだろうか。これは、児玉総督からの願いでもある。」と言った後、後藤は改めて賀田の方を見た。
賀田は「わかりました。お国のためにお役に立てるのであれば、この賀田金三郎がご用意させて頂きます。この件、大倉喜八郎の手を煩わせる必要はございません。この賀田がお手伝いさせて頂きます。」と即答した。
いきなり総督府へ呼び出され、8万円という大金を、これまたいきなり用立てて欲しいと言われれば、普通の人間ならば考え込むか、驚きを隠せないものだが、賀田は、涼しげな顔で即答したことに、後藤は逆に驚いた。
同席していた横沢秘書官も「賀田さん、8万円ですよ。しかも、相手が指定した明日の帰順式の時間までに間に合わなければ、この話は白紙撤回されてしまい、全てが水の泡になってしまうのですよ。そんなに簡単に、しかも、自分が用立てるだなんて即答してもいいのですか。本当に大丈夫なのですか。」と賀田に詰め寄った。
賀田は大きな目をより一層大きく見開き、そして大きな声で「この賀田金三郎。お国のお役に立てるのであれば、喜んですべてを投げ捨ててでもお約束を果たします」と横沢に向かって言い放つと今度は後藤の方を見て「後藤局長、今から直ぐに準備に入ります。昼前には宜蘭に到着する必要があるとすれば、残された時間はさほどありません。私はこれにて失礼致します」と席を立った。
賀田は来た時よりも急ぎ足で総督府を出て、自宅へと向かった。
「賀田金三郎という男、一体、どの様にしてあれだけの大金を用意するのだろう。大倉喜八郎にも頼らず、自分が何とかすると言っていたが・・・・。私も世間では「大風呂敷」と言われているが、奴はそれ以上なのか。」と後藤はつぶやいた。そして、賀田との話し合いの内容を児玉総督に報告するために総督室へと向かった。
賀田は自宅に戻ると、自分が所有している株券、有価証券、家の権利書等々、自分の財産全てを持ち出し、三十二銀行台北支店の支店長である田村養三郎台北支店長の自宅へと向かった。時刻は0時近くになっており、台北の街は今と違い、静まり返っていた。
田村支店長の自宅に到着した賀田は同氏の家の扉を叩き「夜分に申し訳ない。大倉組の賀田金三郎です。田村支店長に急ぎのお話がございます」と叫び続けた。
しばらくすると眠そうな顔をした田村の妻が出てきた。賀田は挨拶もそこそこに、田村支店長に急ぎ会いたい旨を伝えた。すると奥から怪訝そうな顔をしながら田村が出てきた。
「賀田さん、こんな夜中に何事ですか。お話ならば明日、銀行でお聞きしますから。ここは自宅ですからね。」と夜中に突然現れた訪問者に対し、怒りを隠すことなく言い放った。
すると賀田は「こんな時刻に誠に申し訳ない。しかし、これはお国の一大事なのだ。あなたも日本国民であり、この台湾の地で生きる日本人ならば、お国のために働く義務があるでしょう。とにかく、お国の一大事なのです。まずは私の話を聞いてもらいたい」と大声で訴えると、それまで眠そうに、そして腹立たしい気持ちでいた田村が喝を入れられた様になり、「お国の一大事。それは大変だ。さ、さ、こちらへ」と賀田を自宅の応接間に迎え入れた。
賀田は、後藤から聞いた一連の流れを説明し、「と、言う事で、ここに私の全ての財産を持ってきた。これを担保に、今すぐ、銀行の金庫を開け、金を用立てて欲しい」と頭を下げた。これに対し田村は「お話はよくわかりました。賀田さんの全財産の価値を考えると、担保としても十分です。しかし賀田さん、一つだけお聞かせいただきたい。この金、台湾総督府は賀田さんに返してくれるのでしょうか。その約束は取り付けましたか」と尋ねた。すると賀田は、「田村さん、人は生まれてきたからには死ぬまでお国のために働く義務があります。私は今回、自分の財がお国ためにお役に立てることを大変光栄に思っている。万が一にも、この金が戻ってこなかったとしても、また、働けばいいだけの事。個人の財よりもお国を守る事が一番大切なのです。」と返答した。
田村は賀田の覚悟を聞き届けると、「わかりました。これ以上は何も申しません。これから一緒に銀行へ行きましょう」と言って、田村は妻に身支度をする様に言った。
しばらくして身支度を終えた田村は賀田と共に、三十二銀行台北支店へと向かい、金庫を開け、お金を用意した。賀田は持参した株券などを田村に預け、「正式な契約書は後ほどと言う事で、今は一刻も早く、このお金を後藤局長にお届けします」と言い残し、お金の入ったカバンを抱えて、総督府への駆け出した。
総督府に到着した賀田は、後藤新平に金を手渡した。後藤は「賀田君、本当にありがとう。それにしてもわずかな時間でこれだけの金。一体どうやって」と聞いたが賀田はニコニコしながら「そんな事よりも局長、直ぐに宜蘭に向かうご出発のご準備をなさってください」と言った。後藤は「そうだな。わかった。帰順式から戻ったら、一度ゆっくりと時間を作ってくれ」と言い、横沢秘書官と共に、総督室へと向かった。
賀田はその後藤の後ろ姿を見送りながら「あのお方ならば、今後、台湾を大きく発展させ、正しい方へと導いてくださるだろう」と思った。
【参考文献】
播磨憲治 台湾を近代化に導いた人物 賀田金三郎
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