台湾近代化のポラリス 土匪(どひ)誕生の裏側
賀田金三郎は賀田組の若手従業員達を前にさらに話を続けた。
「ここで土匪についてもう少し話をしてもいいかな」
すると青木が「社長、土匪とはどうして生まれたのですか」と尋ねた。「それはいい質問だ。」と金三郎は青木の方をみながら微笑んだ。
「実は乃木総督時代のことだった。「三段警備法」というものが採用された。これは、台湾全土を「危険」「不穏」「安全」の3種類にわけ、危険地帯、主に山間部を軍隊が、不穏地帯、主に都市郊外の山あいを憲兵が、安全地帯、主に都市部を警察官が警戒にあたるというものだった。
同時に「匪徒刑罰令」によって土匪もしくはその疑いのある者は次々と処刑され、その数は、1万人~2万人と言われている。
しかしながら、軍隊は山地の地理に不慣れ、土匪が悪事を働く集落では攻撃力の乏しい警察を配すというミスマッチ、また軍隊・憲兵・警察の仲が良くないので連携が悪いこともあって、大きな成果は得られなかったのだ。
通常 「土匪」は一般の民衆に混じって生活しており、警察や軍が彼らを識別できなかったため、騒動が起こり、軍がその場に駆けつけたときには、彼らはすでに一般住民に姿を変えて逃げてしまっていた。しかも、
「土匪」を確定できない軍や警察が「土匪」以外の人間を殺害することによって、ますます反日感情を植えつけ、抗日を激化させるという悪循環さえ招いてしまった。
疑わしきは全て成敗することを優先しすぎて、罪なき台湾人が犠牲になることもあったのだ。
後藤長官は、あらゆる聞き取り調査から「土匪」は抗日武装集団として一括されているものの、実際には様々な要因で土匪になった者が多いということがわかった。つまり 「土匪」を構成する者には 「政治的な不平分子」だけではなく、軍や警察によって家族や親類を殺された者や、総督府の管理によって鉱業や樟脳生産などにそれまで従事していた者が生業を奪われ困窮した者が土匪に多く加わっていたのだ。
そこで、長官はまず、三段警備法を廃し警察による治安維持の方針に切り替えられた。抗日勢力に対し軍が武力で一方的に制圧するというのではなく、警察力による防止や監視に務める対策を重視されたのだ。
そして、生活の困窮によって 「土匪」となった者が多数含まれているという判断から、先ほども話したように、生物学の原則に従い、総督府に帰順する者には罪罰を不問に付し、生業に就くための資金を与えるなどの懐柔策をとられた。たとえば総督府は、投降した
「土匪」を道路建設などに従事させ、そのための費用を土匪の頭目(リーダー)に与え、その統率下で作業を進めさせた。頭目の力は絶対力で、この組織化された労働力を利用することによって、一般の労働者以上の成果を得ることになると長官はお考えになった。実際、彼らの働きがあって、予定よりも早く道路建設は完了した。」
陳秋菊は当初は対日協力者であったが、日本警察に疑われたことをきっかけに土匪の頭目となったことがわかった。
台北の深坑出身の陳秋菊。家族は茶農家で、清朝時代に淡水廳拳山堡深坑仔莊で生まれた(日本統治時代は臺北廳深坑支廳文山堡烏月莊)。
彼は子供の頃から詩や書道に親しみ、成長してからは深坑荘の責任者を務めていた。
清仏戦争の際、基隆を守るために義勇兵500人の連隊を徴兵するよう命じられ、翌年には功労により基隆近郊のフランス軍を攻撃するよう招聘された。軍事功績のある四級武官として政府に任命され、八重の花の青い羽を身に着け、明朝時代、各省の最高軍事機関である都指揮使司(通称都司)の長官の称号である「都司」を与えられた。
日本統治後は、当初は日本の統治政策に対し協力的ではあったが、日本軍の日本軍の殺戮・狼藉・破壊等を契機として抗日派となり、土匪の頭目となった。
後藤はこの陳秋菊の一連の調査結果を西郷菊次郎に伝えた。西郷はこの調査結果を得て、陳秋菊との交渉方法について思案した。
そして西郷が導き出した方法に周囲は驚き、猛反対したのであった。
【参考文献】
若林正丈「台湾抗日運動史研究」
後藤新平 「日本植民政策一斑」
後藤新平 「台湾統治救急案」
鶴見祐輔 「後藤新平」
後藤新平 「国家衛生原理」
コメント
コメントを投稿