台湾近代化のポラリス 生物学の原則

 賀田金三郎を囲んで賀田組の若手従業員達が金三郎の話に聞き入っていた。

「児玉総督は台湾総督という職務以外にも陸相、内相、文相、参謀本部次長、満州軍総参謀長などの職務も兼任されており、中央での兼職や外征により、台湾不在の期間が長く、その結果、台湾統治は民政長官の後藤新平長官が負うところが非常に大きかった。

ところで君たちは、「統治とは」という問いにどの様に答える」

賀田組の若手従業員達は一同に考えた。その中で青木という若者が手を挙げた。

「統治とは、我々が統治した人民達を服従させることでしょうか」とやや自信なさげに話した。

賀田金三郎は、少し笑みを浮かべながら、「服従させるかあ・・・。」と言って腕組みをした。そして少し間をおいて「服従ではなく、悦服でないとダメだな。」と答えた。そして続けた。「悦服とは、心から喜んで服従すること。すなわち、台湾の人民が日本に統治されて良かったと思わなければ、統治は成功しない。

しかし、台湾を統治した時、日本は台湾民主国の抗日活動に苦しめられ、結果、台湾側が14,000人以上、日本側も近衛師団長の北白川能久親王の戦病死をはじめ、日本軍の兵士にとって慣れない熱帯の風土という悪条件も相侯って、戦死・戦病死者は4500人以上を数えるという悲劇を生んでしまった。

さらに、悲劇は続き、「土匪」と呼ばれた漢族の武装集団と台湾先住民族による武力抵抗が頻発した。

下関講和条約の際、清国の全権 ・李鴻章は 「台湾は難治の地なり日本之を得るとも益なかるべし」と忠告し、台湾授受の際の全権であった李経方は 「台湾島民は元来標桿強暴」にして他の中国人の比ではないと語ったそうだ。

ではもう一つ君たちに尋ねたい。「台湾統治における日本の威信」とはなんだと思うかね。」

一同は個々人に「威信・・・・。」と言ったまま考え込んでしまった。

その様子を微笑みながら見ていた賀田はしばらくしてから語りだした。

「私が見てきた感じでは、統治当初は、台湾人に対する支配者としての威信と、欧米人に対する 「文明国の一員」としての威信だったように思う。

そこに一石を投じたのが後藤長官だった。

民政局長として着任されて間もないときに児玉源太郎総督に提出された 「台湾統治案」では、長官が38歳の時(明治21年)にお書きになった「国家衛生原理」で示した政治思想を台湾統治にも直接反映させようとする見解が論じられていたそうだ。

それが、「凡そ植民経営の大胆は、今日の科学進歩に於ては、須 く生物学の基礎に立たざるべからず。生物学の基礎とは何ぞや。科学的生活を増進し、殖産、興業、衛生、教育、交通、警察等、皆此に基を開き、以て生存競争場裡に立ちて、克く適者生存の理を実現すること之なり」というものだ。

長官の「生物学の原則」に基づく統治方針は、お互いの差異を十分に把握し留意する必要性を主張するもの。

医師出身の長官は、国家を医師に、統治される側を患者として考え、医師は患者の病状を十分に診察した上で治療を施すのと同じで、相手側を十分に理解し検討することではじめて政策が効果的に遂行できるとお考えだったのだ。」

「なるほど。医者と患者の関係かあ・・。」と集まっていた若手従業員達全員が感心する様に大きくうなずいた。

「長官は、内務省衛生局長時代に 「台湾統治救急案」という意見書を内務大臣及び台湾事務局総裁だった伊藤博文大臣や井上馨伯爵、そして当時の児玉源太郎総督に提出されているが、そのなかで、「統治が難航している原因は、現地の制度や慣習を尊重せず、内地のものを形式的に適用していることである。」と述べられていると聞いた。

実は、児玉源太郎総督は台湾総督に着任された際、従来なされてきた施政方針演説をおこなっておられない。その理由のひとつには、歴代の総督による演説が結果的に実行を伴わぬ言葉だけのものとなり、かえって統治者としての威厳や信用の低下を招いているという判断もあったようだが、後藤長官の「統治の方針は無方針」にすべきだというご提言が生かされたと思われる。すなわち、統治方針を予め決定してしまうのではなく、その前に現地にある旧来の制度や慣習を十分に調査検討しなければならないという 「生物学の原則」が踏まえられていたのだ。

長官はよく私に、「心体の健全発達に満足なる生活境遇即生理的円満」を享有せんとする目的を叶えようとする欲望、それが近代社会で、「生理的円満」を獲得することに駆り立てる欲望を 「生理的動機」と呼ばれ、人類は 「生理的円満」を自らの最終の目的とする「生理的動機」に突き動かされることによって、闘争的世界を繰り広げているとおっしゃっていた。」

 

賀田金三郎は自らの人生を振り返り、如何に自分の人生に後藤新平という人物が大きな影響を与えたかを改めて感じていたのである。

【参考文献】
伊能嘉矩 「領台十年史」、台湾日日新報社、1905年 

那珂通世 「台湾に関する意見」 「台湾協会会報」第六十六号、1904年

後藤新平「国家衛生原理」

後藤新平 「台湾統治案」鶴見祐輔 「後藤新平」第一巻 第二巻



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