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東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 豐濱郷ってどんな街、東海岸線の旅

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  【豐濱郷ってどんな街】 花蓮最後の街は豐濱郷。東海岸側では花蓮の一番南に位置します。 豐濱郷の面積は約 162.43 平方キロメートル。細長い形状をしており、西側には海岸山脈が連なり、東側は太平洋に面していて、花蓮縣内では最も人口の少ない地域になります。( 2024 年 4 月現在で 4,161 人) 豐濱郷には阿美族の文化と噶瑪蘭族(カバラン族)、撒奇萊雅族(サキザヤ族)の文化があり、それぞれに自身の生活文化を大切にしています。 豊浜郷は、阿美族文化発祥の地で、オランダ時代の記録によれば、 1875 年に清朝が開山した後、加禮宛事件により漢民族がこの地域に流入し始めました。また、噶瑪蘭族の移住により、民族の多様性を見ることが出来ます。経済産業は主に農業と漁業で、米、檳榔、柑橘類などが栽培されています。稲作に関しては、日本時代に棚田農法を日本人が教えました。今も、新社地区ではこの棚田農法が行われています。   豐濱郷はその昔、「貓公」と呼ばれており、境 內 には複数の原住民が住んでいました。主に、納納、港口、大港口、貓公、新社、加路蘭等部落にそれぞれの部族が独自の文化を守りながら住んでいました。 1909 年に花蓮港廳となったのを機に,豐濱地区は大港口区となり、花蓮港廳直轄地域となりました。大港口区には当時、 9 つの部落がありました。 1916 年,大港口区は「貓公区」と改名され、さらに 1920 年には、「新社区」と改名されました。 1937 年には、新社区は「新社庄」と改められ、花蓮港廳鳳林郡に属するようになりました。 戦後の 1945 年 12 月、新社庄は「新社郷」と改められ、花蓮県に属する事になりましたが、他県に同名の地区があったため、 1946 年に「豐濱郷」と改名されました。 豊浜郷の阿美族の中で、最も正統的伝統文化部落である貓公 (Fakon) 部落及港口 (Makota’ay) 部落は、 103 年に花蓮県の文化資產に登録されました。   現在、豐濱郷には、新社部落( Paterungan )、磯崎部落( Kaluluwan )、豐富部落( Tingalaw )、八里灣部落( Haciliwan )、立德部落( Kodic )、豐濱部落( Fakong )、大港口部落( Laen...

東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 太魯閣の戦役以前の太魯閣族

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太魯閣族(タロコ族)は、台湾の東部に居住する台湾原住民の一部族です。 花蓮県北部の秀林郷、卓渓郷を中心に分布。元来は南投県仁愛郷に居住していましたが 17 世紀に人口増加と漢人入植者の増大による耕地不足により、花蓮地区に移動。日本統治時代では泰雅族(タイヤル族)の支族とされていました。その分類は、戦後も引き継がれていましたが、 2004 年 1 月 14 日に中華民国内政部より独自の民族としての認可を受け、台湾における 12 番目の原住民とされました。 このため過去の文献では、現在太魯閣族と呼ばれている人たちを、「泰雅族」もしくは「賽德克族(セデック族)」に含まれている事もあります。 前章でご紹介しました太魯閣の戦役以前の太魯閣族は大きく分けて内太魯閣地区、外太魯閣地区、巴托蘭地区の 3 か所の地域に居住していました。   ≪内太魯閣地区≫ 東は科蘭から西は中央山脈に至る立霧渓の中上流域を外太魯閣地区と言います。 太魯閣族語では、「 Dogiaq Torako 」と言い、この Dogiaq とは「山頂」「内側」の意味で、太魯閣の高い場所を意味します。居住地としては、主に立霧渓の中流域と上流域にあり、その多くは川沿いの段丘や緩やかな斜面でした。ここは花蓮に移住した太魯閣族の初期の居住地域でした。 元々太魯閣族は、 Toroko-Torowan (現、南投縣仁愛鄉西南方山腹)に住んでいましたが、東へと移動し、中央山脈を越えて秀林郷の山中に定住した者もいます。さらに、そこから、中央山脈と科蘭 の間に移住していった者もいます。 1914 年の時点で、内太魯閣地域には、 40 余りの部落が存在していました。   ≪ 外太魯閣地区≫ 外太魯閣地区は、中央山脈の東側の尾根、北の大濁水溪から南の加禮宛山までです。 太魯閣族語では、 「 Mokisiyau Toroko 」と言います。 Mokisiyau とは「外」「端」を意味します。主に中央山脈東側尾根の山地や渓谷に分布しており、海拔 26 ~ 800m の間です。北は平溪渓(以前は、濁水溪と呼ばれていた)に始まり、南は加禮宛山、東は太平洋或花東縱谷西側の山麓上方部に接し、西は、卡奧灣( Qaugwan )、巴達幹( Batakan )、桑巴拉堪( Sonpala...